創業からアジア最大財閥へ
李嘉誠と長江実業 中国市場において、日本企業の競争相手であり、パートナーとなりうる中国企業の「未来像」を考える時、市場経済の実践で先を行く香港企業の経営戦略、行動様式をベンチマークとすることができるのではないか。そうした問題意識から、香港で創業し、アジア最大の財閥へと成長した長江実業について調べ、2013年6月CMMSのOBを母体とする華人経済・経営研究会でご報告した。以下はその要約である。 長江実業(集団)有限公司(以下長江実業)は香港に本社を置く、アジア最大の財閥であり、傘下の上場企業の時価総額は約14兆円、52カ国に28万人の従業員を抱えている。 長江実業創業者の李嘉誠は、1928年に広東省潮州市で生まれ、1940年に英国統治領香港へ移住した。金物屋の営業マンとして働いていた時に競合相手だったプラスチック商から誘われ、転職した李嘉誠は頭角を現し、18歳の若さで営業部長に昇進した。
1950年、李嘉誠は独立して「長江プラスチック」を設立、家庭用品を製造していたが、ある日、業界誌で、水遣り等の手間のかからない造花が欧米で人気になっているという記事を読む。李嘉誠は早速、製造しているイタリアに飛び、工場入口に労働者募集の貼り紙があるのに気付き、工場で働きながら、造花技術を「盗む」ことに成功したという。精巧な造花を作るには日本製プラスチック成型器が一役買った。設備導入を仲介したのは東京銀行香港支店だった。品質はイタリア並みの造花が半値で買えるとあって、李嘉誠の会社はたちまち評判になった。香港の造花業は世界シェアの80%を占めるまでになり、トップメーカーの李嘉誠は「ホンコンフラワー王」と呼ばれた。 不動産業への転進 工場家賃が年々値上げされることから、1958年に土地を購入し、工業ビルを建設、一部を賃貸に出したのが不動産ビジネスへ乗り出すきっかけだった。折からの人口増加等を受けて、莫大な家賃収入が得られることから、李嘉誠は造花ビジネスで蓄えた資金で不動産投資を行うようになる。 1967年、中国の文化大革命の影響を受けて、香港では労働争議が頻発、中国が武力で香港を奪還するのではないかという憶測も流れ、多くの企業や市民が不動産を投げ売り同然で手放し、海外へ移住するなか、李嘉誠は不動産を底値で買い漁ったと言う。1968年に入ると香港社会は安定し始め、不動産価格も回復した。1971年、李嘉誠は不動産開発・賃貸業専門の「香港置業」を設立、不動産事業に重点を移す。
デベロッパーとして飛躍のきっかけになったのが、1970年代に始まった香港の地下鉄開発プロジェクトである。最大手ホンコンランドを含む30グループによる激しい入札を、開発主体の地下鉄路公司(MTRC)のキャッシュフロー改善を含めた提案を行うことで当時まだ中小デベロッパーに過ぎなかった長江実業が落札したことで、大手デベロッパーの仲間入りを果たした。それと同時にプラスチック事業からは撤退する。 香港最大の財閥へ その後、李嘉誠はジャーディン・マセソン傘下のワーフ、ハチソン・ワンポア等の英国資本財閥の買収を重ね、グループを成長させていった。戦略は概して、大量に土地を保有しながら、割安に評価されている企業を買収し、開発により利益を得るものだった。 1984年、中英が香港返還で合意。1986年、香港10大財閥ランキングで長江実業は初めてジャーディン・グループを抜き、英資系財閥を華人系財閥がしのぐに至った。 文化大革命や香港の中国への返還など、政治環境の大きな変化の中で的確な対応ができたことが巨大財閥形成の基礎となった。香港では、製造業として成功した企業が不動産開発に乗り出し、デベロッパーへ転身する例が多い。その点で、モノづくりにこだわる日本企業とは性格が異なる。華人企業と取引する際、日本企業は、相手は必ずしもモノづくりを重視しているとは限らないと考える方がよいのかもしれない。 (敬称略、このシリーズは2カ月に3回掲載します)
【藤田法子(ふじたのりこ)さん】
大阪外国語大学(現大阪大学)中国語学科卒業、大阪商工会議所入所。1998〜2000年、在中国日本国大使館専門調査員。2003年、「中国ビジネス支援室」を立ち上げ、中小企業の中国展開をサポート。2014年国際部課長、大阪外国企業誘致センター事務局次長。
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