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九龍バスの歴史
大型の2階建てバスが街を走り抜ける風景は香港の象徴でもある。これらバスを運行する代表的なバス会社が九龍巴士(九龍バス)で、香港全域に路線を張り巡らせている。今年で創業80年を迎えた九龍バスの歴史を紹介しよう。
1930年以前と30年代 九龍バス(KMB)は1933年に創業。前身となる九龍汽車有限公司は1921年に設立、主要株主でもある雷瑞徳氏と雷亮氏が運営していた。九龍区では当時、中華バス(CMB)や啓徳バスなども運行していた。 1933年、香港政庁は香港区と九龍・新界両区の運営権を2社開放すると発表。雷雷両氏は著名実業家で篤志家の肇堅氏らとともに競売に参加し、九龍・新界両区の運営権を落札した。一方、香港区はCMBが落札した。KMBは当初、バス110台を保有し、18路線を運行した。
1941年12月25日、旧日本軍が香港を占領。占領期間中、九龍バスの運行は停止された。1945年9月、日本政府が降伏文書に調印して第二次世界大戦が終結すると、わずか6台で運行を再開した。1946年から軍用中古トラックを改造したバスを投入し、1948年までに九龍区で11路線、新界区で4路線を運行した。1949年には独自動車大手ダイムラー製で、香港初となる2階建てバス車両「ダイムラーA」を導入。香港は2階建てバスの時代に突入した。
1950年代、香港のバスサービスは穏やかな発展期を迎える。乗車時の秩序を守るため、54年から係員を配置し、乗客整理にあたった。また、1950年代後半までに自動ドアを導入した。1950年代、市民生活はまだ簡素で、娯楽といえばサッカーだった。九龍バスもサッカーチームを持っており、1960年代まで「南巴大戦」(南華—九龍バス戦)のチケットは入手が難しく、1枚のチケットが数十倍で売られたという。
1960年代、中国本土から押し寄せた移民が香港に資金、技術、労働者をもたらし、香港は中継貿易港から工業都市に変化。経済の急速な発展で、香港の工業は飛躍的に伸びた。また、香港政庁は黄大仙・観塘両地区を皮切りに、観塘や/ژ湾などの地区でもニュータウン開発に着手し、公営住宅や工業区を建設した。これに伴い、交通需要が増えたため、九龍バスは新たに観塘・茘枝両区に車庫を建設。戦前に建てられた旧車庫はその役目を終えた。本土の文化大革命の影響を受けてストから暴動に発展した1967年5月の「六七暴動」では、すべての公共交通機関がマヒした、全従業員(約7000人)の3分の1以下で運行を維持した。
1970年代 70年代は世界的なエネルギー危機が発生。欧州諸国のストの影響が香港にも及び、新車の到着が遅れた。このため、九龍バスは修理・点検スタッフの研修・育成を強化した。1972年3月から「1人販売制」を導入し、これまで2階建てバスに3人いた販売員を1人にした。販売員は1階の専用座席に座り、乗客はこの販売員から切符を購入しなければならなかった。1972年、海底トンネルを通る海越えバスに運賃箱が設置されると、徐々に販売員は取って代わられた。
1980年代から、香港政庁はニュータウン開発に本格的に乗り出した。1980年代半ばまでに60万人がニュータウンに居住、地下鉄や電車も相次いで開通した。特に新界地区の沙田や屯門などでの急速な発展が追い風となり、九龍バスの路線ネットワークと乗客数も大幅に拡大した。 1990年代から現在 1990年代に入り、工業は北部に移り、香港はサービスと技術革新の時代に突入した。21世紀前後に小売り、観光などのサービス産業の向上に加え、情報技術や環境保全技術が飛躍的に伸び、世界の経済・社会に革命的な変化をもたらした。九龍バスは創業から80年、革新と変化を求める精神を保ち、サービスと科学技術の先駆者として業界トップを維持している。
今日、九龍バスは世界最大規模の民間バス運営会社の一つでとなり、乗客数は1日延べ260万人以上に達している。環境保全の効果を高めるため、1992年から欧州排ガス基準のバス車両を導入。2009年には「ユーロ5」基準の車両を導入した。2010年と12年に電気バスなど環境対応車を相次いで投入した。 また1997年に九龍バスとバス製造会社が世界で初めて、お年寄りや車いすの乗客向けに超低床(ノンステップ)バスを開発し、バリアフリー・サービスを開始した。この後、世界の都市でも低床仕様のバスが普及していった。 2012年8月に香港品質保証局から「OHSAS 18001職業健全・安全管理システム認証」を取得。バス運営会社としては香港で初めてとなった。
新界・囲村の原住民だった梁さんは、非常事態発生時に外で仕事をすることに反対した家族を押し切り、応募した。「1年目は制服代に100ドル、つり銭袋代として100ドル、合わせて200ドルの保証金を支払う必要があったので、他の人からお金を借りた」という。 同年5月、試験に合格、7月から研修を受け、11月には正式に切符販売員としてデビューした。ただ、入社後も数カ月間は社内研修があり、先輩から「車内でいかに安定を保つか」などの指導を受けた。しばらくして配置された市中心部では「いかに無銭乗車を防ぐか」が重要な任務となった。ある時は「学生たちが一斉に乗車して、運賃を払わず逃げた。捕まえた一人が持っていた教科書から学校が分かり、先生に報告した」。またある時は「乗客にすべて小銭で払われ、数えているうちに下りられてしまった」という。しかしその後、運転手に見張りを頼み、乗客がすべて切符を買ったことを確認してから下車させるよう策を講じたという。梁さんは現在、九龍バスで事務員として働いている。
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