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英国植民地時代と何が変わった?
〜特別行政区の仕組み
政治、経済から社会、文化に至るまで、知っているようで意外にあやふやな香港の「仕組み」についての知識をイチから勉強するための好評連載。第6回は、香港特別行政区の仕組みについて解説する。 (ジャーナリスト・渡辺賢一)
政治に無関心だった英国植民地時代
1997年7月1日に中国に返還されるまで、155年間にわたって英国統治下にあった香港。返還前は「The Crown Colony of Hong Kong」(英国王室植民地香港)と呼ばれ、文字どおり英国国王が直轄していた。その国王の名代として香港の行政を取り仕切ったのが歴代の香港総督だ。
植民地であるから、当然、そこに暮らす人々に自治権はない。その意味で、中国が定めた香港基本法(香港のミニ憲法)で「高度な自治」(完全な自治ではない)が認められている今日の香港市民は、植民地時代と比べて立場が向上したと言えるのかもしれない。
返還前は、香港が中国の一部に組み入れられたら、市民の政治活動や言論は中国共産党の指導の下で厳しく統制されるのではないかという懸念が渦巻いていた。しかし現実には、宗教団体の法輪功が香港各地で繰り広げている共産党批判は黙認されているし、「天安門事件」への抗議集会やデモもいまだに行われている。
「高度な自治」が認められたことで、香港市民の政治参加意欲は、むしろ植民地時代よりも高まっているのではないかとさえ思える。
香港政庁(英国植民地時代の香港統治機関)は、香港市民の政治参加を容認しない代わりに、レッセフェール(経済の自由放任主義)を掲げて、市民の経済活動にはまったく干渉しない方針を貫いた。
その結果、香港市民はビジネスに没頭するようになり、政治に対する関心が薄らいでいった。「政治なんてどうせ女王陛下の家来が決めること。おれたちは日々の暮らしだけを考えればいい」というあきらめの気持ちが強かったのだろう。
ところが返還後、香港政庁から行政を引き継いだ香港特別行政区政府(以下、香港政府)はレッセフェールを後退させるような政策を次々と打ち出し、中国本土の経済発展とともに香港の経済都市としての地位も相対的に低下。市民は、「香港政府はいったい何をしているんだ」と政治に不満を募らせるようになった。
中国政府は、返還前の香港市民らの政治に対する無関心ぶりを見て、「高度な自治を認めても、大きな政治的混乱は起こらない」と高をくくっていたに違いない。その後の度重なる政治集会やデモを見て、それが大きな誤算であったことに気付いたのではないだろうか。
英国にとって香港はあくまで「植民地」。しかし中国にとっては「母国の一部」である。中国政府が植民地時代の統治形態を強要できるはずがなく、市民主体の政治を掲げるしかなかった。返還後に不安を抱く香港市民たちの気持ちをなだめる狙いもあったのだろう。
不完全ながらも三権分立を保つ
1997年の返還と同時に発足した香港政府は、女王陛下の名代である香港総督に代わって、香港市民の代表である行政長官がトップとなった。
香港基本法第44条は、行政長官の選任条件として「香港に連続二十年以上居住し、外国に居留権をもたない香港特別行政区永住民のなかの満四十歳以上の中国公民でなければならない」と定めている。
市民による直接選挙で選ばれたトップではないにしても(注・行政長官の直接選挙については、2017年に実施することを中国全国人民代表大会常務委員会が容認している)、香港の利益を代表する香港市民が政府を取り仕切ることになったのは画期的だと言える。
形式的とはいえ、市民不在の統治は終わりを告げ、 鄧小平氏が掲げた「港人治港」(香港人による香港統治)が実現したのである。
新しく生まれた香港政府は、初代行政長官に任命された董建華氏(任期1997〜2005年)を除いて、主要官僚ポストのほとんどを香港政庁時代の官僚がそのまま踏襲した。もともと政庁の官僚は大半が香港人だったので、トップを替えさえすれば「港人治港」が成立し、いままでどおりの行政事務が継続できる。有能な官僚たちをそのまま横滑りさせれば、トップに誰が座ろうと、返還後も香港の行政はスムーズに運営されるに違いないと中国政府は考えたのであろう。
中英共同声明(香港返還合意)のもと、政庁時代の行政組織は名称こそ変更されたものの、ほとんどが同じ機能のまま香港政府に引き継がれた。つまり返還後の香港行政のあり方は英国植民地時代と基本的に変わっていない。
むしろ董行政長官時代の2002年に、それまでは公務員であった各政府部署のトップを「閣僚」に相当する政治任命ポストに格上げし、行政長官の諮問機関であった行政会議に「内閣」に相当する権限と責任を持たせる「高官問責制」を導入するなど、香港政庁時代に比べて政府としての機能は強化されている。
立法、行政、司法の三権分立も、不完全な形ながら保たれている。中国本土では、「政治は中国共産党が指導する」と憲法で定められ、三権分立はおろか、三権の独自性すらも否定されていることを考えれば、英国植民地時代以来の西側の政治制度が温存されていることは、香港市民にとってはありがたい。
基本法に反する法律は認められない
法律についても、基本的には英国および英国領の伝統である慣習法(コモンロー)が踏襲されている。
ただし、返還後に施行された香港基本法に反する法律については例外だ。香港基本法は「ミニ憲法」であり、すべての法律に優先される。そして、制定された法律が香港基本法に反するかどうかの解釈権は全国人民代表大会常務委員会が握っている。
たとえば同委員会は返還直前の1997年2月、英国植民地時代に制定された条例のうち、政治団体などの社団設立を登録制から届け出制に変更した「社団条例」、デモを許可制から届け出制に変更した「公安条例」は香港基本法に違反するため、返還後は不採用とすることを決定した。これに対し、一部の香港市民は「言論や集会の自由が制限される」と猛反発。香港政府側も民意に配慮して内容をかなり緩和したものの、結局は両条例の改正案が可決されてしまった経緯がある。
司法にかかわる変化としては、返還後、終審法院(最高裁判所に相当)が設置されたことが英国植民地時代との大きな違いだ。かつての香港では、終審裁判は英国で行われていた。これも植民地からの解放を象徴する変化であると言えよう。
ちなみに香港の犯罪件数は返還を境に著しく減少しており、今日では日本よりも犯罪発生率が低い。ただし、これも英国の植民地から解放されたからなのかどうかは明らかではない。(このシリーズは月1回掲載します)
ジャーナリスト。『香港ポスト』元編集長。主な著書に『大事なお金は香港で活かせ』(同友館)、『人民元の教科書』(新紀元社)、『和僑―15人の成功者が語る実践アジア起業術』(アスペクト)、『よくわかるFX 超入門』(技術評論社)『中国新たなる火種』(アスキー新書)などがある。