交易大堂
株取引の電子化に伴い、香港唯一の証券取引所「香港交易所」の「交易大堂(立会場)」が約32年の歴史に幕を下ろした。
10月27日午後4時、セントラルのエクスチェンジスクエアにある香港交易及結算所有限公司(香港交易所または港交所/HKEx)の立会場に取引終了の鐘の音が響き渡ると、赤地に白い登録番号が入ったベスト姿の「紅衫仔(赤チョッキ)」と呼ばれる「場立ち(フロア・トレーダー)」が私物の整理を始めた。彼らは立会場で売買処理を行う証券会社の担当者だが、今回の閉鎖を機に退職する人も少なくない。
夕刻からは送別会が開かれ、元職員を含めた一千人近いフロア・トレーダーが立会場に集まった。林鄭月娥(キャリー・ラム)行政長官も参加し、001番の番号入りの赤いベストを着て記念写真に納まった。林鄭・行政長官の番号はことわざの「天字第一号」から付けたもので、最高や最強を意味する。香港交易所で歴代行政長官が立会場を初訪問した際にプレゼントされる慣例の品だ。
香港交易所は国際金融都市、香港の象徴的な場所としての位置付けもあった。だが、株取引の電子化に伴い、立会場が本来果たしていた役割はすでに薄れている。2000年前後にロンドン、東京、深圳が、2006年にはシンガポールが閉鎖し、上海とニューヨークも大幅に縮小している中、香港の閉鎖は時代の趨勢だと言えよう。
香港に初めて証券取引所が開設されたのは1891年のことだ。「香港会」と呼ばれたが、当時は英語で取引しなければならなかったため華人は参加しづらく、株取引は上流階級の遊びというイメージが強かった。
それから半世紀以上が過ぎた1960年代末、華人資本の証券取引所がようやく相次いで開業する。「遠東交易所(遠東会)」「九龍証券交易所」「金銀証券取引所(金銀会)」の3つだ。当時、フロア・トレーダーは電話で投資家の注文を受けると、他のトレーダーに先を越されないようすぐさま室内の大きな黒板に駆け寄り、注文を書いて取引を競った。時間と体力の勝負。ある元職員は、株高だった1972年当時の様子を、場内は活気に満ち、大量の株券が目の前を行き交った。帰宅はいつも午前様だったと語った。
大金が動くだけに、誰もが縁起を担いだ。金銀会の女性元職員によれば、設立当初の同会のベストはオレンジ色で腰のあたりをひもで縛って着ていたが、カニが縛られているように見え、値下がりして売るに売れない「蟹貨(塩漬け株)」を連想させるとして、トップの意向で赤いベストに換えられた。また、昼休みの外食中に株価が暴落すると、フロア・トレーダーたちは当面の間、その店に行くのを避けたという。
1986年、前述した4つの証券取引所が合併し、「香港聯合交易所(聯交所)」が誕生すると、エクスチェンジスクエアの立会場が使われるようになる。
1992年には、鄭少秋(アダム・チェン)と劉青雲(ラウ・チンワン)が主役を務めるドラマ『大時代』が大ヒット。株式市場を舞台に2つの家族の愛と復讐を描いたこのドラマには立会場のシーンも多く、お茶の間に株取引の仕事が知られるきっかけとなった。中でも赤いベストを着たフロア・トレーダーたちがハンセン指数の掲示板を見つめ、「上がれ! 上がれ! 上がれ!」と腕を振り上げながら叫ぶ場面は多くの香港人の心に残っている。
このドラマから、株価の変動が激しい状況を「大時代」と呼ぶようになり、さらにこれ以降、アダム主演のドラマが放送されるたびに株価が暴落したことで、「アダム主演のドラマが放送されると株が下がる」といった都市伝説まで生まれた。この都市伝説は『大時代』でアダムが演じた無鉄砲な男「丁蟹」の名前から、「丁蟹効応(ティンハイ効果)」と呼ばれている。
1993年、自動取引システム「自動対盤及成交系統(AMS)」が導入されると電子化が一気に進み、証券会社が社内で取引を行えるようになったことで、フロア・トレーダーの数は減少していく。
2000年、聯交所が先物取引所の「香港期貨交易所」、「香港中央決算有限公司」と合併し、現在の香港交易所となる。この時点では、フロア・トレーダーの数はまだ600人を超えていたが、近年の立会場の使用率は1%未満にまで低下。フロア・トレーダーの数はピーク時の約1500人から、最終日はわずか30人となった。
立会場は今後、「香港金融大会堂(ホンコン・コネクト・ホール)」と名称を改め、改装工事を経てセレモニーや展覧、会議、投資家の教育などを行うスペースに生まれ変わる。来年旧正月明けのオープンを予定している。
また、証券会社とのブース契約は10月末で終了しているが、香港交易所の李小加・行政総裁は、一定の需要があれば新たに賃貸契約を結び、セントラル近くに取引スペースを設けるなど、できる限り協力したいと語っている。
(この連載は月1回掲載)