114回 泛政治化 (幅広い政治化)

114回 泛政治化 (幅広い政治化)

香港メディアの香港政治関連の報道では、香港ならではの専門用語や、広東語を使った言い回し、社会現象を反映した流行語など、さまざまなキーワードが登場します。この連載では、毎回一つのキーワードを採り上げ、これを手掛かりに、香港政治の今を読み解きます。 (立教大学法学部政治学科教授 倉田徹)

行政と立法の関係改善で蜜月

習主席に向かって就任宣誓を行う林鄭長官

人為的に対立を生む政治闘争に
多くの市民が疲れ

習近平・主席の宿題

今回のキーワードは「泛政治化」です。「泛」は、「広範な」という意味を持ち、「泛政治化」は、訳せば「幅広い政治化」の現象を指す言葉です。

6月29日から7月1日まで習近平氏が国家主席就任後初めて香港を訪問しました。この訪問について注目されたのは、同日就任した林鄭月娥・新行政長官と政府の主要官員に対して、習氏がどのような講話を行うかでした。国家主席の講話は、香港特区政府にとっては確実に答えるべき「宿題」となり、今後5年の政治を占うものとなるからです。例えば2007年、当時の胡錦涛・国家主席は香港返還10周年の記念行事のための滞在に際し、香港に愛国教育の強化を求め、特区政府はこれに対応して2012年からの「国民教育科」必修化を目指したのです。

今回、習氏は様々な場でスピーチを行いましたが、中でも最も公式の色合いの濃い新行政長官や主要高官の就任式では、新しい政府に具体的な重い「宿題」を複数与えました。習氏は「一国二制度」に「新しい問題」が生じているとして、国家主権・安全・発展の利益を守る制度の不備、歴史・民族文化の教育の弱さ、法的問題への認識不足、経済発展の厳しい見通し、不動産問題などの市民生活の問題の深刻さを列挙した上で、特に若者に対する愛国教育の必要性を強調しました。上述の国民教育科は、周知の通り、2012年の反対運動で撤回されました。また、基本法23条に基づく「国家安全条例」案も、2003年に「50万人デモ」で廃案となっていますが、習氏はこれらに再挑戦するよう、事実上、林鄭氏に命じたと言って良いでしょう。

一方、これと同時に習氏は、「泛政治化」の回避も述べています。香港は多元的社会で、異なる意見の存在は当然であるが、人為的に対立を生む「泛政治化」の渦に巻き込まれてはならないとしています。このため、習氏は恐らく穏健民主派を念頭に、「愛国愛港」の者で、「一国二制度」の方針と基本法を誠心誠意擁護する者とは、政見や主張を問わず交流したいとのメッセージも送ったのです。

「泛政治化」回避=「去梁化」

当選から就任直後にかけての林鄭長官の発言や政策・政府運営を見ると、彼女はまずは習氏の発言の穏健な部分の線に沿って、「泛政治化」の解消を目標としているようです。

例えば、独立派に対する見方において、林鄭氏は梁氏とは大きく異なります。6月のあるテレビ番組で、林鄭氏はこの件について、ごく一部の者が現実にそぐわない不適当な議論をしているだけに過ぎず、大部分の香港人は一国二制度の継続を支持していると述べました。梁振英・前行政長官は、独立問題に強硬な態度で応じたために、かえって反発を呼び、問題を深刻化させたと指摘されます。林鄭氏の発言は事実上梁氏の政治姿勢を批判する内容でした。梁氏はこれにすぐ反論し、台湾独立思想が当初の穏健な内容から徐々にエスカレートしたことを例に挙げ、このため香港もあらゆる漸進的な分離主義の主張に警戒すべきであると強調しました。

林鄭氏は3月の行政長官選挙当時、民主派に近い姿勢を示した他の2候補と比較して、梁氏の路線を引き継ぐ「CY2.0」と評されました。しかし当選後、林鄭氏は素早くソフト路線に転じました。そのアプローチは「去梁化」、即ち「脱梁(振英)化」とも形容されます。闘争心を前面に出した梁氏の路線が「泛政治化」の一因となったことから、梁氏のカラーを払拭することを旨としたのです。

梁氏の任期中にうち続いた各種の政治闘争に、市民の多くは疲れを感じており、「休養」を掲げた曽俊華・前財政長官に多くの支持が集まったのが選挙の時の民意の動向でした。ほとんどの世論調査では、梁氏の後継者とみられた林鄭氏は、曽氏より低い支持率だったのです。しかし、当選後の林鄭氏は、むしろ曽氏のカラーを引き継いだようです。就任早々に立法会に赴いた際は、議長席の前に立って威厳を示そうとした梁氏と異なり、林鄭氏は議長席より一段低い横の位置に立って議員の質問に答え、立法会に対する尊重の意を示しました。林鄭氏は民主派とも交流を重ねており、議場での民主派の抗議も減りました。まずは行政と立法の関係を改善することから、「泛政治化」を解消しようとの試みの滑り出しは、世論調査の支持率を見ても良好のようです。

いつまで続くか?

しかし、すでにここまで「泛政治化」が進んだ香港社会で、この路線はいつまで貫くことができるでしょうか。就任直後の「挨拶」の段階では、林鄭長官と民主派がそれぞれ一定の「礼儀」をもって相手に接することは可能であっても、具体的に意見の異なる政策の論争が始まれば、そのような雰囲気は吹き飛んでしまうでしょう。

林鄭氏の就任から2週間の時点で、すでにきな臭いのが副長官人事の問題です。教育局や民政事務局の副局長に、共産党系の学校の校長や、中国本土での地方幹部経験者などの北京寄りの人物が就任するとの噂が浮上すると、民主派は即座に強く反発しています。また、建設中の高速鉄道西九龍駅での中国本土側入管担当者の法執行の問題も、大きな火種となります。

そして、基本法23条立法と、愛国教育の強化の問題、さらに民主化の問題をいずれも先送りにしていることは、巨大な時限爆弾を抱えているようなものです。前二者は上述の通り、習主席からの宿題であり、数年以内には何らかの答えを求められます。まず数年の時間をかけて「泛政治化」を解消し、それからこれらの問題に取り組むのが林鄭氏の理想ですが、その作戦はすでに多くの者に見透かされています。そもそも極めて政治的な問題の議論を始めれば、「泛政治化」を避けることは非常に難しいはずです。
「蜜月期」と呼ばれる、就任直後のお祝いムードのうちに、市民の支持や民主派の協力などを固められるか、世論の信頼を勝ち取れるか。林鄭氏は就任後早速、極めて重要な時期に入っていると言えるでしょう。

(このシリーズは月1回掲載します)

筆者・倉田徹
立教大学法学部政治学科教授(PhD)。東京大学大学院で博士号取得、03年5月〜06年3月に外務省専門調査員として香港勤務。著書『中国返還後の香港「小さな冷戦」と一国二制度の展開』(名古屋大学出版会)が第32回サントリー学芸賞を受賞

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