中秋節
中秋節は秋の豊作を願う祭りごとの一つ。
中国では丸い月を一家団らんの象徴ととらえ、旧暦の8月15日(今年は9月24日)の中秋節に家族が集まって月餅を食べながら月をあがめることから「団圓節」とも呼ばれる。当日の夜にはランタン(ちょうちん)を下げた家族連れを街で見掛ける。
なぜこの日が「中秋」とされるのかは古来の暦法に起因する。旧暦を四季に分けると7、8、9月は秋季に当たり、8月はその中間、
しかも一カ月を30日とすると15日はちょうと真ん中に当たる。また1年を二十四節に分けた暦法では秋は六節(立秋、処暑、百露、秋分、寒露、霜降 )に分かれ、8月中旬に当たる秋分が真ん中に位置することに由来するとの説もある。いずれにしても中秋の月は丸く美しい。
漢民族の誇りをかけて
月をあがめる信仰ははるか古代から存在し、周の時代にはすでに中秋節にさまざまな祭りごとが行われていた。中秋節の佳節としての始まりは唐代にさかのぼる。唐太祖かが旧暦八月十五日を中秋節に定め華やかな行事が行われた。これは宋代になると普遍的な行事として定着し、元朝末期から 明朝初期にはある出来事をきっかけにより深い意義を持つようになった。
月餅を食べるという風習の起源は意外なものだ。朝が始まってから漢民族はモンゴル民族による統治に不満を抱いていた。しかし反旗を翻そうにも攻撃を仲間に伝える手段がない。そこで「疫病がまん延しているから月餅を買って食べよ」とうわさを流した。村人たちが月餅を開けてみると中には「中秋節に決起する」と書いた文書が入っていた。この後、明朝を建てた朱元璋(明太祖) が勝利を記念し中秋節に月餅を食べる風習を奨励したと伝えられている。
下界を懐かしむ天女
中秋節の昔話には仙人になりたかった木こりの物語『呉剛伐桂』、仙人を助けたウサギにまつわる『玉兎搗薬』などがあるが、中でも『嫦娥奔月』は最も有名だ。
昔、天界に嫦娥という美しい天女が住んでいた。彼女は天帝のめいで、后羿という神と夫婦になり、楽しく暮らしていた。その頃天には十個の太陽があり、下界では厳しい暑さと日照りが続いていた。天帝は后羿を下界に遣わして太陽を九個射落し、魔物を退治するよう命じる。后羿は嫦娥を伴って下界に下り、彼女を洞穴に残して太陽を射落しに出かけて行った。
ある朝、日差しが和らいでいるのを見た嫦娥は、夫が仕事を成し遂げたことを知って喜び、天女のように空を舞おうとした、だが天女の力は人間界では失われて、飛びことができない。夫に置き去りにされ、天女に力も無くなって天界に帰ることもできなくなった彼女は絶望に打ちひしがれた。
冬が過ぎ春が来て、ようやく帰ってきた后羿は自分の妻がすっかりやつれているのを見てこう言った。
「元気をお出し。昆侖山に住む西王母の宮殿に一粒飲めば不老長寿に、二粒飲めば仙人になれる薬があると聞く。それを一粒ずつ飲んで、下界で二人仲良く暮らそう」
嫦娥は泣くのをやめ、夫にその薬を買ってきてほしいと頼む。后羿はこのまま下界に残って人間たちのために働こうと考えていたので、嫦娥の言う通りに長く険しい山を越えて西王母に会いに行き、妻と自分に薬を一粒ずつ求めた。
数カ月が過ぎ、后羿が薬を持ってやっと帰ってきた。気の焦る嫦娥に后羿は「焦ることはない。明日は満月で日が良いから、二人でこの薬を飲もう」と言い。程なくしてぐっすり寝入ってしまった。
夜半、嫦娥はこっそり夫の荷物を開き、不老長寿の薬を取り出した。
「一粒飲めば不良長寿に、二粒飲めば天界に帰れる」
かつて后羿がこう言っていたのを思い出し、天界に帰りたい一心で薬を二粒とも飲み干して外を駆け出した。天空には満月が輝き、嫦娥は天界を目指して飛んで行った。
天界についた彼女は天の門を開けてくれるよう門神に頼み、帰ったことを告げた。ところが門神は門を開けようとせず、天帝の言葉を告げる。
「お前は夫を顧みず、薬を二つとも飲んで一人で勝手に帰ってきた。そのような者を天界に入れるわけにはいかない。罰として永遠に月の宮に幽閉する」
こうして嫦娥は天界に帰ることも、下界の夫の元に戻ることもできず、一人寂しく月の宮に住むことになったのだった。
(この連載は月1回掲載)