繊細な表現が光るバイオリン独奏
香港フィルの音楽監督・ズヴェーデンの新シーズンが始まりました。今年からニューヨークフィルとの掛け持ちになるので、これからさらに多忙であるにもかかわらず、意欲的なプログラムでますまず聴衆を楽しませてくれるようです。
そんな彼が今シーズン2回目に指揮する9月7日と8日のコンサートは、久し振りにオーソドックスなプログラムで勝負します。1曲目はブラームスの「大学祝典序曲」。50歳代以上の大学受験勉強をした世代では聴いたことがある人が多いはずです。昔、旺文社で発行していた雑誌「蛍雪時代」にラジオ講座があり、文化放送で大学入試の学習講座を放送していました。その際に番組冒頭の音楽が、このブラームスの曲の中間部分のファゴットがほのぼのとして吹くメロディーでした。
作曲当時の学生歌のひとつで、常に真剣勝負のブラームスの作品の中では、この曲は若干のユーモアも感じられる作品です。しかし、真面目一辺倒のイメージの強いズヴェーデンが指揮すると、この曲もやはり重くブラームスの重厚さが強調されちゃうのかな、とも思います。
北国の冬に誘う響き
2曲目は、シベリウスのバイオリン協奏曲。バイオリン独奏はイケメンのジョシュア・ベルです。若手の代表格だと思っていた彼もすでに50歳になりました。
北欧の作曲家というと、「ペールギュント」で有名なノルウェーのグリークと「フィンランディア」で有名なフィンランドのシベリウスが双璧です。前者はピアノ協奏曲1曲を作曲して超有名曲になり、後者はバイオリン協奏曲を1曲だけ作曲してこれも名曲中の名曲です。グリークはノルウェー語を話し、シベリウスはフィンランド語を話し、同じ北欧の国にもかかわらず、話す言語は全く異なる系統の言語で100%異なります。
作曲家の母国語が異なると、紡ぎだす音楽のメロディーラインと雰囲気が異なることが多いと感じます。シベリウスの音楽の独特な響きはそこに由来するのではないかと感じます。
シベリウスのバイオリン協奏曲は、冒頭の響きで一気に北国の冬に誘います。あたり一面雪に覆われてさらに深々と粉雪が降り注ぎ、辺りの音という音、すべてを吸収するような光景で、遠くから一丁のバイオリンの音色が聴こえて来るという、筆者の故郷の冬での経験を呼び返すようなひんやりとした音が、じわじわと近づいてきて感覚は研ぎ澄まされます。
雪は時に凶暴になり、また冷たい海の荒波にも戦いを挑むような勢いも持ち合わせますが、オーケストラが大音響でうねり、バイオリンが根太い音色で自己主張をして立ち向かったり一緒に音楽を奏でたり、北国は自然に翻弄されながらも、しかしそこに住むバイオリンは自然に同調してたくましく生きていく、そんな音楽です。
ベルは繊細な感情を巧みに表現することがうまいバイオリニストですが、年齢を重ねてさらに磨きがかかっていると思います。彼は現代作曲家の作品を数多く演奏し録音しており、やはりシベリウスのような、聴こえるか聴こえないかわからないほどの弱音で紡ぎ出される繊細な表現と、一方でオーケストラに立ち向かう強さが要求される作品は、今の彼に打ってつけなのでしょうね。
荘厳で輝かしい交響曲
コンサートのしんがりとなる3曲目は、モーツァルトの最期の交響曲です。モーツァルトは亡くなる3年前に2〜3カ月という短期間に39番、40番、41番を作曲しました。この中で単調の交響曲である第40番が、ある意味、悲劇的な音楽です。最後の交響曲になる第41番は、スケールが大きくて荘厳で輝かしいとよく言われ、「ジュピター」というニックネームがあります。
晩年の借金まみれの時に、このような未来志向の音楽を作曲できること自体モーツァルトの天才性を示すのですが、第2楽章でも張りつめたままで、力はみなぎっています。その後の第3楽章、第4楽章と徹底的にイケイケドンドンで、哀しんでいる余裕を与えません。
ズヴェーデンはこれから香港とニューヨークでモーツァルトの交響曲を演奏していくようです。彼ならば、この輝やかしいジュピター交響曲を、憂いも感じさせる音色で、しかし、人生を肯定させて元気づけるような音楽にしてくれるでしょう。
(本連載は2カ月に1回掲載)