《126回》土地大辯論(土地供給の諮問活動)

《126回》
土地大辯論
(土地供給の諮問活動)

香港メディアの香港政治関連の報道では、香港ならではの専門用語や、広東語を使った言い回し、社会現象を反映した流行語など、さまざまなキーワードが登場します。この連載では、毎回一つのキーワードを採り上げ、これを手掛かりに、香港政治の今を読み解きます。


開発可能な土地を選定
5カ月間の公開諮問を実施

2003年の「50万人デモ」の背景には不動産の暴落があった

不動産暴騰は政治問題の一因

香港最大の社会問題

今回のキーワードは「土地大辯論」です。これは、林鄭月娥・行政長官が現在実施している、開発用地の不足を補う方法についての諮問活動を指す言葉です。

香港に住むほとんどの人たちが痛感している、現在の香港で最大の社会問題は、不動産価格の暴騰であると言えるでしょう。政府が発表した民間住宅の販売価格指数は、1999年を100として、2018年5月には382・6(暫定値)まで上昇しています。つまり、この20年足らずの間に、不動産価格は4倍弱に上昇したことになります。さらに言えば、この期間中最も安かったのは、新型肺炎SARSが流行した後の不景気で、「50万人デモ」も発生した2003年7月の58・4ですので、これと比べれば、15年間で6・5倍以上という、より極端な数字になります。平均的家庭が不動産を購入するには、飲まず食わずでも19年間の貯蓄が必要である一方、公共住宅への入居待ち時間は平均で4・7年に達しています。

不動産が暴落から転じて暴騰となり、社会問題化して早くも10年ほどになります。その間、曽蔭権・梁振英の2代の行政長官は、いずれもそれぞれの方法で不動産価格抑制の策をとってきましたが、価格上昇を食い止めることはできませんでした。林鄭長官は就任後、住宅地として開発可能な土地を選定するための専門家グループである「土地供応専責小組」を設置しました。

同小組は2017年9月から会合を開始しました。規画署の推算では、2026年までの短期に約800ヘクタール、2026年から2046年までの中長期に約400ヘクタールの、合計1200ヘクタールの土地が、開発のために新たに必要になるとされています。これはビクトリア公園60個分を上回り、東京・千代田区の面積に匹敵します。その解決方法を1年半かけて検討するのが、小組の役割とされました。小組は4月26日、諮問文書を発表し、5カ月間の「土地大辯論」がスタートしました。

結論ありきの諮問?

小組は前提を設けずに市民に諮問するとしていましたが、一部からは、政府の「開発ありき」の政策を裏打ちするための組織に過ぎないという疑念が呈されています。

例えば、民主派は小組のメンバーが開発業者側に偏っていると批判します。政府によって小組の主席に任命された黄遠輝氏は、銀行業界で30年を超える経験を積んだ人物でした。また、環境保護団体は、そもそも1200ヘクタールの土地が不足しているという政府の主張自体が前提となっていると警戒します。

諮問文書は、政府が特に埋め立てを有望な選択肢と考えていることを浮き彫りにしました。文書によれば、1980年代・90年代には3000ヘクタールを超える土地が埋め立てで作られたのに対し、2000年から2015年にかけての埋め立ては690ヘクタールにとどまり、過去よりも8割減少したとされます。このような土地供給の不足が住宅用地の不足の原因であり、その結果、過去10年の新築住宅建設戸数は毎年平均2・5万戸と、その前の10年の平均6万戸から大きく減少したといいます。諮問文書は、埋め立ての場合、現在の土地用途の変更や、私有地の収用と住民の移転が必要なく、費用対効果が高いと指摘します。

一方、新界の農村部には、一般に「棕地(茶色い土地)」と称される、本来は農地ながら、倉庫や小型の工場、廃品回収場などの用途に事実上転用されている土地が点在しています。また、粉嶺には170ヘクタールのゴルフ場があります。これらを開発することで、埋め立てを回避することを主張する意見もあります。しかし、新界には原居民の特殊な利益が存在しており、その開発は相当激しい抵抗に遭うことが必至です。実際、諮問開始2日目の4月28日には、早くもゴルフ場開発の賛成派と反対派の間で衝突も起きています。

不動産問題のジレンマ

不動産価格の暴騰は、社会問題から、2014年の雨傘運動に代表されるような巨大な政治問題の一因にもなってきたとされます。実際、香港中文大学の調査では、政府の住宅政策に不満と述べた者は、2007年には30歳以上の者で27・6%、18〜29歳では16・6%と、年長者に多かったのに対し、2015年は30歳以上が53・0%に上昇した一方、18〜29歳では75・5%に達するなど、現在不動産問題は、若者の間で激しい不満を呼んでいます。これほど深刻な問題でありながら、解決が遅々として進まない原因として、香港政財界に残る不動産価格暴落の記憶が挙げられると思います。

返還直後にアジア通貨危機に見舞われた香港は、バブル崩壊による不動産の暴落に見舞われました。年金制度が貧弱な中、中産階級の者は不動産の転売で資産を形成します。彼らにとって、この時期に多発した、不動産の急落によって住宅ローンの残額が資産額を上回る「負資産」という状況は、悪夢のような日々でした。この問題は、2003年の「50万人デモ」の背景にあったと論じられます。つまり、不動産問題は、暴騰すれば雨傘運動を引き起こし、暴落すれば50万人デモを引き起こすという、実に難しいジレンマの下にあるのです。

加えて事態を複雑にしているのは、中国本土からの資本の流入です。2017年上半期には、本土の開発業者が政府用地のオークションで、破格値で競り落とす「爆買い」ぶりが話題になりました。その後、中央政府による引き締めもあり、目立つ大規模な土地購入は減りましたが、本土の業者は中古市場などにも進出し、相変わらず活発に動いているといわれます。いかに法外な暴騰中とはいえ、香港は本土のような不確定な政治リスクがなく、本土の業者にとっても安定して稼げる市場と見なされているというのです。

こうなると、香港内部での「土地大辯論」だけで、この深刻な不動産問題をどの程度解決できるか、残念ながら疑問と言わざるを得ないでしょう。香港は本土との経済融合が進んだ結果、事実上中国経済の「資産投機センター」となりつつあります。高付加価値な金融業に従事する者でもない限り、そういう場に暮らすのは、非常に苦しいことになっているのです。

(このシリーズは月1回掲載します)

筆者・倉田徹

立教大学法学部政治学科教授(PhD)。東京大学大学院で博士号取得、035月~063月に外務省専門調査員として香港勤務。著書『中国返還後の香港「小さな冷戦」と一国二制度の展開』(名古屋大学出版会)が第32回サントリー学芸賞を受賞

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