受け継がれる習わし《清明節と寒食節》

受け継がれる習わし
清明節と寒食節

 清明節(今年は4月5日)は華人にとって大切な日だ。中国ではこの日は古来より祖先の墓に参り、掃除をする習慣がある。またこのころは新茶の出回る季節でもあり、おいしいお茶を手に入れる絶好の機会だ。その清明節の由来と習慣とはどういったものだろう。時期が近い寒食節と併せて紹介する。(構成・編集部/一部写真・馮耀威)


清明節の由来とは

 清明節は太陽の黄道上の位置から1年を24分割する中国の伝統的な季節区分、二十四気の1つで、「春分」から15日目に当たる。一方、冬至から105日目は「寒食節」と呼ばれる。この2つは起源から見ても特に結び付きはないが、日が近いため昔からよく混同されてきたようだ。

清明節に当たる日は、古来より先祖の墓参りをする「掃墓」の習慣がある。香港ではこの日、家族や親せきがそろって先祖の墓に出掛け、墓の掃除をし、紙で作ったお金を墓前で燃やし、お供え物をする。だが香港のみならず、この習慣は今日に至るまで中華圏をはじめ世界中の華人に受け継がれている。

掃墓の習慣は唐代にすでにあったといわれる。歴代の皇帝はこの日に国王の陵墓で祭りや儀式を行った。宋代になるとこの習慣はさらに一般市民に広まり、皇帝から庶民までが「寒食節」と「清明節」の前後3日の間に必ず墓参りをした。

また、現在でも清明節が来ると陝西省の「黄陵」に行く人も多い。黄陵は古代伝説の帝王、黄帝の墓であり、黄帝は黄河流域の古代文明の始祖とされている。黄帝の陵墓に墓参りに行くということは、「中華民族は黄帝の子孫であり、この地での祖先の功績を忘れてはいない」という先代を敬う意味を持つという。

海を望む高台にあるお墓。清明節にはお墓参りに行く習慣がある

春の訪れを満喫

清明節にはまた、古来より緑豊かな郊外へピクニックに行く「踏青」と呼ぶ習わしがある。気候も穏やかで新緑の美しいこの季節に、人々はこぞって郊外に出掛け、春の訪れを体で満喫する。

この踏青の習慣は唐代に始まり、宋代に一般化した。唐代の風物詩を記した古文書『開元天宝遣事』に次のような記載がある。

「唐の国の都、長安(現在の陝西省西安市)では、清明節の日に女性たちは郊外に出掛け、適当な草地を見つけると身に付けていたスカートを脱いで木の枝にカーテンのように掛け、そこに身を隠して野のうたげを楽しんだ」

当時の女性たちは日々を部屋の中で過ごし、自由に外を歩き回ることが禁じられていた。だが、清明節だけは自由に外出をすることが許されたという。そのため恋人を求める男性たちもまた、この日は女性たちに会いに郊外に出掛けたといわれている。宋代にはまた、清明節に人出の多い場所に市が立ち、菓子や花、果物、玩具、カモの卵、ヒヨコなどが売られたと伝えられる。

掃墓も踏青も、その習慣の内容は長い年月を経てさまざまに変化したと考えられる。だが、うららかな春の日に先祖を敬い、家族や友人らと自然を心ゆくまで満喫するという概念は、今も変わることなく受け継がれている。


春秋戦国時代の伝説

 「寒食節には家で火をたいてはいけない」と言われ、大人も子供も前々日に作っておいた食事を温めずに食べる。この習慣はある言い伝えに由来する。

2500年前の春秋戦国時代、晋の国王、晋献公には重耳という息子がいた。だが晋献公の妃は重耳が王の座に就くことを嫌い、重耳の暗殺を企てる。これを知った重耳は側近を連れて城の外へ逃れた。19年の逃亡生活の後に重耳は晋の国王となり、晋文公と呼ばれるようになった。

晋文公は逃亡生活の間、一緒に城を逃れた側近に苦労をさせたことを気に病み、国王になってから彼らにほうびを与えてたたえた。中でも介之推は晋文公のとても忠実な側近の1人だった。あるとき、晋文公は巍の国で包囲され、幾日も食べ物を口にできない日が続いた。そんなとき、介之推はこっそりと自分の脚の肉をそぎ落とし、それを煮て晋文公に与えた。

介之推はまた、謙虚で誠実だった。晋文公が介之推のことを忘れても、自分の功労をたたえるように王に要求することはなかった。介之推は晋文公が城に戻ると、老いた母親を背負い、都を後にして綿山(現在の山西省介休県の東南)へと去ったのだ。

王の過ちが生んだ寒食節

ある日、晋文公はふと介之推のことを思い出した。「介之推はどうしてほうびを受け取りに来ない?」。だが、そのとき介之推と母親の姿はすでに都から消えていた。晋文公は八方手を尽くし、介之推の行方を探し、親子が綿山へ行ったことを知った。だが、広大な綿山で母子を探し出すのは至難の業。晋文公は思案し、介之推が孝行者だったことを思い出した。「綿山に火を放ったら、介之推は母親を背負って山から下りて来るに違いない」。晋文公は綿山に火を放つように家来に命じてしまった。

だが、介之推親子は現れなかった。もともと、2人は死んでも国王からほうびを授かろうなどとは考えていなかったのだ。晋文公は火を放ったことをとても後悔し、介之推親子をこの綿山に手厚く葬り、2軒の廟を建て、綿山の名を「介山」と改めた。

そのため翌年からは、その日になると晋文公は国中に火の使用を禁じ、自身も冷めた食事を取った。それは、介之推親子に対する晋文公のせめてもの償いだった。その後、この行いは庶民にも広まり、この日は火を使わずに冷めた食事を取るのが習わしとなり、寒食節、「禁火節」「禁煙節」、もしくは冬至から105日目に当たることから「百日節」などと呼ばれた。

民間に伝わった寒食節の食べ物は主にナツメを使ったもち菓子「子推」と、「大麦粥」の二種類がある大麦粥は大麦かうるち米をすりつぶして煮、やはりすりつぶした杏仁を少量加えて豆腐のように固めたもので、薄く切って麦芽糖を振り掛けて食べる。いずれも寒食節の前に作っておく。またこの日は家々の門に柳の枝を挿し、介之推親子をしのぶ風習があるという。


降り続く雨と龍井茶

 唐代後期の詩人、杜牧は清明節に一編の詩を残している。

清明時節雨紛紛、
路上行人欲断魂。
借問酒家何処有、
牧童遥指杏花村。

 この詩は、清明節の日に詩人が故郷から都に戻る途中に詠んだものといわれている。彼はその年、習わしに従って家族とともに祖先の墓参りに出掛けることも、郊外で自然と親しむこともできず、沈んだ気持ちでいた。そのとき、折悪しく小雨が降り始め、彼の着物をぬらした。杜牧は通りすがりの一人の子供に「この辺りで、どこかに宿はありませんか?」と尋ねた。宿で温かい飲み物を飲んで、このやるせない思いをいやすのもいいだろう——。この詩には、清明節の日に1人見知らぬ地を旅する心情がつづられている。

この時期は通常、花々が咲き乱れ、春らんまんの陽気となる。しかし杜牧が詩に詠んだように、本土の江南地方などでは雨が降り続くことが多い。同地方では冬の間にシベリアからの寒気団に上空が覆われ、気温の低い乾燥した日が続き、雨もあまり降らない。だが春の訪れとともに、海洋から暖かい湿った空気が張り出し、寒気団とぶつかる。このため曇りがちな雨の多い天気になるという。

新茶の龍井茶には香ばしさとさわやかな香気がある。また、茶の色は明るく澄み、口に含むとほのかな甘味が広がる

「明前」と「雨前」

清明節の時期はまた、緑茶の新茶が出回る時期でもある。中でも清明節前に摘まれた「明前龍井」と、その後に摘まれた「雨前龍井」は有名だ。

「明前」の「明」は清明節、「雨前」の「雨」は清明節から15日後の「穀雨」から来ている。前述のように、この時期は春の暖かい雨が冬の寒さに凍えた地に染みわたり、木々は翡翠色の新芽を吹かせる。この木々の新芽と葉が緑茶の代表「明前」や、それに次ぐ「雨前」と呼ばれる茶葉になる。

緑茶の栽培に携わる職人たちも、清明節前後は繁忙期だ。手で丁寧に摘み取られた新芽と葉は発酵させず、高温に熱した大きなかまで手を使って煎じられる。「炒青」と呼ばれるこの工程が、緑茶の高い香りと繊細な味わいを生み出す。

緑茶の中でも特に浙江省杭州市の西湖周辺で栽培される「獅峰龍井」は昔から最高級品として知られ、値段も高い。だが最近では、浙江省のほかの地域で栽培された緑茶の方が品質が良いと言う専門家もいる。



~たこと覇王別姫~

清明節にはたこ揚げ大会などが行われることも多い。中国はたこのふる里といわれ、たこにまつわる伝説もある。

たこはその昔、中国語で「紙鳶」と呼ばれた。言い伝えによると漢代初期の将軍、韓信が発明したという。韓信は竹を編んでトビのような形を作り、その上から薄い絹を張り、たこを作った。映画『さらば、わが愛/覇王別姫』でも知られる京劇『覇王別姫』は『史記・項羽本記』から来ており、韓信のたこと関係がある。

紀元前202年、楚と漢の両国の戦争で、楚の覇王、項羽は漢軍の将軍、韓信により垓下(現在の安徽省霊壁県の東南)で敵に包囲された。その夜、項羽は楚の陣営でいら立つ思いを酒で紛らわしていた。夜更けになって、西から吹く一陣の風に乗ってもの悲しい笛の音が聞こえてきた。「あの笛が奏でているのは楚の国の歌ではないか!」。項羽は外に出た。すると、夜空を見たこともない奇怪な生き物がたくさん飛んでいるではないか。トビやムカデ、タカに似たものもある。そして、あの悲し気な笛の音はまさにその空を飛ぶ奇怪な生き物が発していたのだ。

項羽の軍には楚の国で生まれた兵士が多かった。彼らは笛が奏でるふる里の歌を聞いて、居ても立ってもいられずにその調べに合わせて低く歌い出した。そして涙を流し、故郷にいる家族を懐かしんだ。このことがきっかけとなり、楚の国の兵士たちのほとんどがこっそりと故郷へ逃げ帰ってしまった。

窮地に立たされ、楚の民衆も漢軍に屈したと思い込んだ項羽は、妃の虞姫(虞美人)に別れを告げる。虞姫は項羽を勇気付けるために剣舞を踊り、足手まといになるまいと自ら命を絶つ。項羽は意を決して敵陣へ乗り込むが、強大な漢軍を前に烏江まで追いやられ、そこで自決する。成語「四面楚歌(周りをすべて敵に囲まれ孤立無縁となること)」の由来となった物語だ。

夜空に舞う奇怪な生き物は漢軍の韓信が作った笛付きのたこであり、それによって楚の軍は志気が低下して崩壊した。たこは紙鳶以外に「風鳶」ともいわれ、現在の中国語の「風筝」に通じたと考えられる。「筝」は古代中国の楽器で、韓信のたこが音を発したことから「風筝」と呼ばれるようになった。

中国ではたこ揚げのほか、地域によっては清明節に綱引きや闘鶏、ブランコに乗る風習もあるという。
※参考資料:『中国節日故事』(山辺社)、『怎様看憧 黄暦』(遠流出版)など

Share