啓蟄
今年もまた春の嵐が吹き荒れるころになると、憎い相手を呪い苦しめる儀式「打小人」に最適な日「啓蟄日」がやって来る。
拝神婆が鎮座する都会の異空間
世の中には、心に恨みを持つ人がこんなにも多いのか。毎年、啓蟄になると、そう感じさせられる。むせかえるような線香の煙、ろうそくの炎。湾仔とコーズウェイベイの境に位置する堅拿道、鵝頚橋の周囲はこの日、異様な空気に包まれる。
ここでの主役は「拝神婆」と呼ばれる巫女たち。道路脇には、中年の拝神婆が「打小人」の道具を並べて客引きをしている。だが、彼女たちは恐らく新参者だろう。少し先の高架下の一角、薄暗く呪いに最適な場所には、すでに年季の入った拝神婆たちがそれぞれの場所に鎮座しているからだ。
ここの拝神婆に客引きは必要ない。どの拝神婆も次々と依頼を受け、呪いの儀式に忙しい。ろうそくの明かりが揺れる中、手に持った古い靴で一心不乱に紙切れをたたき、火にくべる。紙切れは「打小紙」という呪いの紙。誰を呪うのか、その様子を真剣な顔で見つめる人たち。依頼人は女性が圧倒的に多いと聞く。ただ、周囲には野次馬もいて、誰が依頼人なのかちょっと見ただけでは分からない。
線香の煙で辺りは白っぽく、靴を激しく打ち鳴らす音と横を走る車のエンジン音に耳がふさがれ、少し居ただけで頭がボーッとしてくる。高架の外には、いつもと変わらぬ夕暮れ時の街があるのに、ここだけはまるで異空間のようだ。
呪いの対象は主に夫の愛人や、会社の上司など。儀式は相手の写真があるとなお効果的だという。だが、人を呪うにしてはかなりオープン。仮に儀式を知り合いに見られても、この日だけは免罪なのかもしれない。
靴で打ちたたく呪いの儀式
打小人は啓蟄に限らず一年を通して行われるが、啓蟄以外では占い本『通勝』にその年の何月何日が打小人に向いた日かが記されていて、その日に行えばより効果がある。場所は橋の下や三差路、道端など。これらの場所は魔ものが集まりやすいからだ。
香港で最も打小人が盛んな場所は前述の鵝頚橋。この場所には普段でも打小人の準備をした拝神婆がいる。啓蟄の前に拝神婆に打小人をやってもらった。
まず自分の名前を拝神婆に口頭で伝えると、すぐさま小人紙を石の上に置き、パンプスなどの靴のかかとでカンカンカンカーンと激しく打ち始めた。顔は真剣そのもの、何やら口の中でつぶやいている。打つこと約十分、小人紙がくたくたになったところで紙のトラと一緒に持ち、トラの口の辺りで豚の脂身をこそぐような動作を数回行い、火にくべる。そして辺りにピーナツをパラパラとまき、最後に「聖杯」という占いの道具を手のひらで包むようにして顔の前で数度振り、床に投げ、「ペイ!」と一声上げて儀式は終わった。
小人紙を打つときには、呪いたい人の写真や洋服を一緒に靴でたたくとさらに効果的だという。また、靴は亡くなった人の物を使うといいそうだ。
白虎封じと邪気払い
では、なぜ啓蟄が呪いに最適な日なのだろうか?
広東省の民間伝承によると、啓蟄は動物たちが冬眠から目覚めるように、どう猛な神、白虎も眠りから覚め、えさを求めてさまよう。腹を空かした白虎が人間に悪さをしないよう、昔から啓蟄には白虎を祭る風習があり、この日は「白虎開口日」とも呼ばれた。
白虎を祭る儀式は、紙で作ったトラに拝神婆が豚の血や脂身を与えるというもの。啓蟄には白虎だけでなく、「小人」と呼ばれる霊や病、虫やヘビなど魔ものも活動を始めるので、拝神婆は白虎の儀式と同時に小人を封じ込める魔除けの儀式「打小人」を行った。これがいつの間にか「憎い相手を呪う儀式」としての色合いを強め、今のような形で残ったといわれている。
打小人は人を呪い苦しめるだけでなく、邪気払いや魔除けとしても行われる。例えば、昨年は不運続きだったので、今年は自分や家族に災難や不幸が降りかかることを避けたい、という場合にも行う。好景気とはいえインフレで生活が厳しくなる昨今、大勢の人が邪気払いに訪れそうだ。
(この連載は月1回掲載)