118回 一地両檢

118回 一地両檢(一つの場所で二つの検査)

 香港メディアの香港政治関連の報道では、香港ならではの専門用語や、広東語を使った言い回し、社会現象を反映した流行語など、さまざまなキーワードが登場します。この連載では、毎回一つのキーワードを採り上げ、これを手掛かりに、香港政治の今を読み解きます。(立教大学法学部政治学科教授 倉田徹)

高速鉄道の入管手続き
技術的な問題から政治問題に

高速鉄道の香港側の駅が設置される西九龍

高速道の西部通道ですでに実施

出入境を一カ所で

今回のキーワードは「一地両檢」です。すでに長期にわたり、香港メディアでも論じられてきた言葉ですので、恐らくご存じの方も多いでしょう。「一地」とは「一つの場所」、「両檢」は「二つの検査」を意味し、つまり一カ所で、出境と入境の2つの入管手続きを同時に行ってしまうことを意味します。

現在、広州市から深圳市を経由して九龍に到る高速鉄道が建設中です。開通すれば、西九龍駅から広州南駅までの所要時間は48分と計画されており、広州南駅から中国各地に到る高速鉄道網とも直結されます。完成時には、政府は「一地両檢」を実施する計画です。西九龍駅に、中国本土側と香港側の出入境のチェックポイントを設け、出境と同時に入境手続きを完成できる構想です。

これは一見すると技術的な問題に過ぎず、かつ、利便性も高まるため、この「一地両檢」に特に問題はなさそうに見えますが、実はこの件が大きな政治問題に発展してしまっているのです。

根深い相互不信

「一地両檢」の実施のために、西九龍駅には本土側のチェックポイントが設置されます。そこでは本土の入管職員が勤務することになります。これは、香港内部で本土の官吏が本土の法を執行することを意味するため、民主派は「高度の自治」の侵害と見て反対しています。2016年に「銅鑼湾書店事件」が浮上すると、本土の公安が香港に常駐することは「越境法執行」を呼び込むとの議論も現れました。また、西九龍駅で本土への出入境手続きをする場合、香港域内を走る高速鉄道の車両内は本土側の司法管轄となります。仮に香港域内で列車事故が起きた場合、香港の救急隊が救援できるのか、あるいは車両が香港を走行している間、本土で使用不能のフェイスブックなどを使えるのかなどという点も議論されました。梁振英・前行政長官は「一地両檢」の実現を目指しましたが、論争性の高さに、任期中に具体案の発表はできませんでした。

林鄭月娥・行政長官の就任後の7月25日、政府は「一地両檢」の具体的方法案を発表しました。そのやり方は、基本法第20条の、全人代常務委員会が授与する権力を香港が享有するとの規定を利用して、全人代常務委が香港に「一地両檢」を実施する権力を授与するという、アクロバティックな方法でした。この方法に対しては、香港で大規模なデモや道路占拠が発生した場合、仮にデモ隊が占拠している場所を特区政府が中央政府の管轄に指定してしまえば、本土のやり方でデモの鎮圧が可能となるとの議論まで飛び出しました。

こうした民主派の反対論には強引なものも多いですが、互いの政治体制の大きな違いの故に、安易な「融合」を警戒するのは、香港側に限ったことではありません。

香港と深圳の西部を、海を跨いで結ぶ高速道路・西部通道では、すでに「一地両檢」が実施されています。ここでは西九龍駅とは逆に、深圳市内の人工島にチェックポイントを設け、そこで香港特区政府の入管当局者が出入境の法執行を行っています。この方式の導入の際、「一地両檢」は本土側で政治問題になりました。2006年8月、全人代常務委は、香港の司法管轄権をチェックポイントの位置まで拡大する議案を審議しましたが、深圳域内に香港の管轄地域を設けた場合、もし本土では非合法の法輪功がここでデモ活動などを行ったら、誰が法執行すべきかなどの問題への懸念が出て紛糾し、2カ月間の継続審議となりました。結局、西部通道は2007年7月1日の返還10周年に合わせて開通し、「一地両檢」が開始されましたが、香港と本土の間の不信感の根深さを思い知らされます。

民主派の抵抗はどこまで

政府は「一地両檢」実現のために必死の努力をしており、林鄭長官の就任後間もなく、高速鉄道の経済効果の広報活動などを開始し、「一地両檢」実現のための世論作りに尽力しました。さらに、立法会に政府が自ら「一地両檢」を支持するとの議案を提出して可決を求めるという異例の行動に出ました。しかし、民主派はこれに対して、繰り返し議場の在席議員数のカウントを求めたり、長い質問を行ったりの相変わらずの審議引き延ばし戦術で抵抗したのに加え、11月2日には傍聴席のメディアや市民を退席させることを求める動議を提出するという手段まで繰り出しました。勿論、この動議が通るはずもなく、民主派も最初から否決を前提とした行動であり、メディアや市民を締め出す意図はありませんでしたが、この動議の審議には1時間半が費やされ、とうとう「一地両檢」支持議案の採決は次回会議に持ち越されたのです。

民主派の審議引き延ばしはすでに常態化し、多くの市民から非難されています。世論調査では「一地両檢」には賛成の声が多数を占めており、過度の引き延ばしは民主派にとって自殺行為にも見えますが、ここまで民主派が抵抗する背景には、「一地両檢」自体が香港市民にとって大したメリットがないという計算があるようです。

 広州まで48分とされる所要時間は、西九龍駅から広州南駅までの時間です。現在の紅磡からの直通列車が発着する広州東駅と比べて、広州南駅は広州市中心部からかなり離れた場所にあります。親政府派の田北辰・立法会議員でさえ、2015年12月に、政府試算では高速鉄道の乗客の85%が珠江デルタの短距離客、65%は深圳までの客と予想されるとして、これらの人たちに「一地両檢」は大した時間の節約にならないと疑義を表明しています。高速鉄道で香港から深圳に行くのは、距離を考えれば、言わば東京から横浜に行くのに新幹線を使うようなものでしょう。加えて、高速鉄道の切符の購入には本土では本人確認が必要で、その手間を考えれば、香港市民が深圳や珠江デルタに行くのは、在来線とバスで十分にも思えます。「一地両檢」は、香港市民よりも、本土各地から香港に来る観光客などにとっての利便性が中心の措置なのです。

「一地両檢」実現には、最終的には香港で立法を行うことが必要です。その前哨戦の現段階で、民主派がこれほど抵抗していることを踏まえると、実現にはまだ少なからぬ困難が待っていると言わざるを得ないでしょう。
(このシリーズは月1回掲載します)

筆者・倉田徹
立教大学法学部政治学科教授(PhD)。東京大学大学院で博士号取得、035月〜063月に外務省専門調査員として香港勤務。著書『中国返還後の香港「小さな冷戦」と一国二制度の展開』(名古屋大学出版会)が第32回サントリー学芸賞を受賞

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