6・7暴動から50周年を迎え、5月7日には粉嶺和合石墳場で追悼活動が行われた。8日付香港各紙によると、6・7暴動は1967年5月に新蒲崗の造花工場での労使紛争が引き金となって左派暴動に発展、51人が死亡、約800人が負傷、約2000人が逮捕された。粉嶺和合墳場には暴動による死者16人が埋葬されており、大部分は警官に射殺されたという。かつての暴動参加者らが組織した67動力研究社は約120人で粉嶺和合石墳場を墓参。代表の陳仕源氏は「6・7暴動の参加者らは暴徒ではなく反帝国主義、反植民地主義の愛国者」と強調し、追悼活動の目的は真相究明だと指摘した。全国人民代表大会(全人代、国会に相当)代表の呉亮星氏も「暴動は香港政庁による暴力的鎮圧が引き起こしたもの。警察による殺人の責任を追及すべき」と指摘。3月の全人代で事件の再評価を提案し、中央が重視していたことを明らかにした。だが中国政府は1981年に明確に文化大革命を否定したため、その延伸である6・7暴動も否定された。【関連記事】http://www.hkpost.com.hk/index2.php?id=17071