第11回 白馬関と落鳳坡
龐統の墓の謎と地震の爪痕
四川省は中国の内陸部にあり、山に囲まれた豊かな自然の中で、独自の文化を育んできた古い歴史を持つ地域です。近年、四川省は経済発展に伴い交通網が整備され、改めて「観光地」として注目を集めています。変貌する「蜀の国」を旅しながら、中国の今を探ってみました。(編集部)
「少不看水滸、老不看三国」(若くして水滸伝を読まず、老いて三国志を読まず)という言葉がある。意味については諸説あるが、人が落ちぶれる様を描いた水滸伝を若いうちに読んではいけない、希望をもって大志を遂げようとする三国志を老人になってから読んではいけない…という解釈があると聞いた。確かに三国志は「桃園の誓い」から始まって紆余曲折を経ながらも、貧しいワラジ売りと肉屋と寺子屋の先生が、乱世をのし上がっていく物語である。
ただし、この物語の結末は皆さんがご存じのように、大志が完成することはなかった。劉備が蜀を取って三国鼎立が実現するのを目前にして、諸葛孔明と並ぶ軍師の1人、龐統(ほうとう)が戦死し、それ以後、劉備の覇業は下り坂を迎えることになる。
龐統の突然の死に誰もが悔しく思い、龐統があそこで死ななければ…と想像した人も少なくないだろう。
龐統が矢に当たって命を落とした…と小説に描かれている「落鳳坡」は実在する。現在もこの地名は残っており、今回の旅行記は落鳳坡への訪問である。ただし、これにはちょっと複雑な説明が必要になる。
㉘龐統の最期と死後の真相
われわれ日本人が親しんでいる小説の『三国志』は、中国で『三国演義』と呼ばれ、古くから講談として民間に親しまれたものを明の時代に羅漢中という作家がまとめた「物語」である。だから、史実とは異なるフィクションが含まれている。
歴史書の『三国志』によれば、龐統は雒(らく)城攻略の際に矢に当たって戦死している。
「雒城」とは現在の四川省広漢市にあるが、落鳳坡は徳陽市にある。距離にして40キロメートルぐらい離れている。つまり、全然違う場所なのだ。つまり、龐統が落鳳坡で戦死したのはフィクションであり、史実ではない。
そして、龐統の墓は2つあり、1つは白馬関の龐統祠に。もう一つは白馬関から少し離れた落鳳坡にある。果たしてどちらが本物の墓なのか?
「血墳」とは?
私は最初、白馬関の墓を参って神妙な気持ちになったのだが、その後で落鳳坡へ行ってみるとまた龐統の墓があり、一体どういうことなのかよくわからないまま帰ってきた。現地の人の話によれば、落鳳坡の墓は昔の墓なのだ…ということだった。その言葉の通りに考えると、白馬関の墓に改葬されたということになる。
中国のネットで調べてみても、この件に関する記事は多く、真の墓は落鳳坡であり、白馬関の龐統祠は後世に作られたものだとされる。改葬については特に記述が見当たらない。
ただし、これに加えてもう1つ、落鳳坡にある墓は「血墳」という説がある。龐統が矢に当たって失命した際に着ていた血染めの衣服を埋葬しているというのだ。これは落鳳坡の「墓」の説明にそう書かれているのだが、出典は『三国演義』(つまり小説)である。この説から考えると、龐統の墓は白馬関にあり、血墳は戦死した場所になる。ただし繰り返すが、落鳳坡で龐統が戦死したのはフィクションでしかない。
「祠」と「墓」は違う
諸葛孔明の諡(おくりな)は「忠武侯」と言い、彼を祭った場所を「武侯祠」と呼ぶが、実はこの「武侯祠」は中国全土に7カ所ある。諸葛孔明の墓は陜西省漢中市勉県の定軍山にあるが、この墓の少し離れたところに「勉県武侯祠」があり、必ずしも「祠」と「墓」は同じ場所にある必要もないし、「祠」は霊を祀る場所なので、たくさんあっても問題ないわけだ。
ただし、「龐統祠」は本来、落鳳坡の墓の近くにあったけれど、何度か破壊され、その後に白馬関で再建されたそうだ。
そのように整理してみると、龐統血墳は小説では戦死した場所になっているけれど、実際は龐統の死の直後に作られた墓であり祠も併設されていたが、その後、破壊と再建を繰り返す内に白馬関の内側に移設され、かつて墓と祠があった場所は血墳になった…ということではないだろうか。
そして、そもそもなぜ龐統は死後に戦場から40キロメートル以上も離れた場所に葬られることになったのか…というのが気になってきた。ある記述によれば、劉備は龐統の死を痛く悲しんで、自ら風水の良い場所を選んだのが鹿頭山の近くの落鳳坡だった…と説明されている。しかし、劉備にとっては蜀を簒奪するための大勝負をかけている最中である。風水以外の目的があったのではないか。
たぶん、落鳳坡が龐統の墓や祠の場所として選ばれたのは、この一帯が交通の要衝であり、そこを劉備軍の軍事拠点にするために龐統の墓と祠を建設したのではないか。そして、後世にもこの地は交通の要衝であったため戦乱に巻き込まれ、龐統祠は破壊と再建を繰り返し、その混乱に『三国志』の史実と小説が入り混じって、現在に至るのではないか…と思われる。
中国の歴史では明王朝から清王朝へと政権は移るが、その間に清に反乱を起こした呉三桂が建てた「周王朝」(1678~1681年…たった3年の短命な政権だった)があり、呉三桂の義子・王屏藩が四川において軍を率いて漢中への北伐を行うも、清軍に敗北する。その際にかつてあったأe統祠は破壊された。龐統がこの付近で戦死したのはフィクションであるものの、秦蜀金牛古道は山に囲まれた蜀と広大な中原を結ぶ道で、白馬関は古来より蜀の安全保障を担う重要拠点であったため、後世の人々にとっては現実味を持ったエピソードとして受け入れられたのであろう。
㉙ある日本人の足跡
白馬関の龐統祠を参観していると、建物の内部の壁面に額がかけられているのを見つけた。「村山孚」という署名があり、中国人の姓に「村」という人はいるのか、もしくは日本人の「村山」さんなのか…と悩んだ。でも、どこかで見覚えがあるような。とりあえず写真を撮って、その後ネットで検索してみた。
【村山 孚】(むらやま まこと、1920年2月5日~2011年12月1日)は、中国研究家。新潟県生まれ。ハルビン学院を卒業。満州国に勤務。大同学院を経て農村で研修。徳間書店出版局長、日本生産性本部出版部長などを歴任。
額には「第八次三国志旅游団遊覧龐統祠墓簽名」と書いてある。「簽名」とは「サイン」という意味だ。
そういえば、昔、日中国交回復後に日本へパンダがやってきて、1980年代の日本には「中国ブーム」があった。三国志の史跡を訪ねる団体旅行の広告をよくみた覚えがある。パンダも三国志も四川省に関わりが深い。日中民間交流の始まりには四川省があったのだ。
それから長い歳月が過ぎ、数々の波乱があって、日中関係も大きく変わった。薄暗い龐統祠の中で、30年前の日本人の足跡を見上げていると、深い感慨を覚えた。これから先の30年後、日本と中国はどんな関係になっているのだろうか。
㉚金面子酒家
この取材旅行の間、移動は全て自動車で、中国人の運転手がついていた。彼は無口で、あまり多くを語らないけど、運転は正確で無駄がなく、素早く目的地へと運んでくれた。その真面目な仕事ぶりにずっと感心していた。
龐統血墳で撮影をしている内に、周囲は真っ暗になった。ここはあの「落鳳坡」である。街灯はもちろんなく、遠くに民家の明かりが小さく見えるだけだ。
あとはホテルへ帰るだけだが、車は出ようとしない。運転手が電話で誰かと話をしている。この近くに、どうしてもわれわれを連れていきたいレストランがある…というのだ。
予定外の取材だが、この寡黙で真面目な運転手が勧めるのだから、よほどの素晴らしい店なのか。でも、こんなに寂しく山深いところに、どんな名店があるのだろうか。龐統血墳から暗い道をゆっくり走り、さらに闇の奥へと進むと、幽界へと迷いこんだかのようだ。ヘッドライトは少し先の道を照らすだけで、その先には漆黒の闇が続いている。
どこまで走るのか…と思っていると、車が止まった。窓の外を見ると、闇の中に薄っすらと民家が見えた。明かりが一切ついていなかったので、よくわからなかったが、目が慣れてくると、闇の中に村が浮かび上がってきた。全く人の気配がしない。生活の痕跡が見当たらない。建物だけが闇の中にある。近づいて見ると、建物はどれも真新しい。
運転手の案内に従って村へ入っていくと、明かりが見えた。看板には「金面子酒家」と書かれていた。
恐る恐る店に入ると、店主も店員も皆、にこやかに歓迎してくれた。テーブルの上に、次々と料理が並べられた。たぶん「金面子」とは豚の顔の醤油煮のことだろう。豚の脂身が染み出した表皮に醤油の色が混ざり合い、黄金色に輝いている。これぞまさしく「金面子」。メーンディッシュが店名なのであった。
ただし、気になることがある。なぜ村は新築で人がおらず真っ暗なのか。レストランも外観内装共に真新しく出来たばかりのようだ。運転手が引っ張ってきたのも、何か事情があるに違いない。そんな疑問を店の人に向けてみると、それまでの明るい笑顔に影が差し、少しずつ事情を語り始めた。
ようするに、彼らは2008年の四川大地震で被災した人たちなのだ。地震で家を失ったが、政府の援助で作られた新しい村に移転して店を始めた。私がさっき見た新築の住居はまだ人が入ってないらしい。アーティストを誘致して「芸術家村」を作り、産業と観光を振興させる計画のようだ。
中国の各地に、このような芸術家村はある。成功したのもあれば、うまく行かなかったのもある。落鳳坡の近くで芸術家村…大丈夫なのだろうか。申し訳ないと思ったが、取材するのが私の仕事だ。聞かずにはいられない。
「もし…客が来なかったらどうなるのですか? 政府の支援はあるのですか?」
店の人たちは皆うつむいて沈黙した。
この取材は2014年9月に行われたが、四川大地震からはすでに6年の歳月が過ぎていた。多くの観光地を取材し、地震の痕跡をたまに見ることはあったけど、ほとんどはすでに復興しており、地震は過去のことのように思っていた。
この店の人たちは、運転手の知り合いなのか。運転手は、彼らを助けたいと思い取材して欲しかったのか。地震から6年が過ぎたが、この人たちの復興は、やっと始まったばかりなのだ。
沈黙が続く中、店の人がやっと口を開いた。
「日本の地震の時に、あなたや家族は大丈夫でしたか?」
私と家族は被災地から遠く離れた場所に住んでいるし、被災地に住んでいる友人と家族は無事でした…と告げると、店の人は皆が自分の家族のことのように喜び、にこやかに安堵した。
その瞬間に、私が今までの取材で気づいてなかったことが、全てわかったような気がした。四川の至るところで多くの人々が、私を親しく歓迎してくれたのは、その背景には「地震」があったに違いないのだ。
過去の歴史や領土問題は、日本人と中国人を敵対関係に分断し、互いを増悪の対象にしてしまう。でも、四川の人々は地震の経験から、日本人を同じ「被災者」として見ているのではないか。四川の人々は日本人のことを、同じ傷を共有し、共に助け合うべき友人のように思ってくれているのではないか。
取材旅行の終盤にさしかかってようやく、私はこの旅の意味を理解し始めたのであった。
(つづく)