経済のグローバル化が進む中、自らの組織のために粉骨砕身するリーダーたち。彼らはどんな思いを抱き何に注目して事業を展開しているのか。さまざまな分野で活躍する企業・機関のトップに登場していただき、お話を伺います。 (インタビュー・楢橋里彩)
玉家(香港)有限公司 【プロフィール】 1967年東京都生まれ。高校卒業後、香港中文大学語学センターに語学留学、広東語を習得。1991年旧香港安田信託銀行に現地採用として入社。1993年退社後、フリーで雑誌やテレビなどのメディアコーディネーターとして取材や執筆活動を開始する。昨年「玉家(香港)有限公司」を立ち上げる。
メディアと食のコーディネート
1993年からフリーでメディアコーディネートの仕事をしており、昨年会社を立ち上げました。雑誌やテレビを中心にしているほか、昨年からは新たに「食」にまつわるフードコーディネートもしています。 ——どんな仕事なんでしょうか。
雑誌、テレビ問わずいわゆる「お世話係」です。テレビだと日本の番組の海外ロケをするときの手伝いです。企画段階から携わって、番組にふさわしいもの(人材や店など)を探し、ロケ期間に間に合うようスケジュールを立てていきます。ほかにも通訳、ホテル、車の手配から、ロケスタッフたちの時間が空いた時には観光を含めながら案内します。 ——大変そうですが、なんだか楽しそうですね。
いやいや大変ですよ。人見知りな性格なので、なかなか慣れません。毎回仕事をするスタッフが変わりますから常に緊張感があります。そんな中でもなるべくスタッフの皆さんが仕事を楽しんで円滑に進むようサポートしています。 ——きっかけは何でしたか。
86年に広東語習得のための留学で香港に来たのが始まりです。でも実はジャッキーチェンのファンで来たという感じです(笑)。香港を舞台にした映画も大好きでしたが、一番カルチャーショックを受けたのが「香港市民生活見聞」(新潮社・島尾伸三著)という本で、それを見て香港に行きたいと思いました。 ——そこから香港生活が本格的に始まったんですね。
最初は現地採用で銀行で働いていました。そのころ友人の紹介で翻訳、通訳の手伝いをしないかと声をかけられてゴールデンハーベストという映画会社の仕事を受けるようになりました。ジャッキー・チェンなど有名な俳優たちの日本との合作映画が多かったということもあり、日本の俳優さんのための通訳、脚本の翻訳などの依頼を受けました。 ——それを機にメディアコーディネートの仕事を?
そうです。通訳や翻訳をしたおかげでメディア関係者と知り合いました。仕事をくれた方が同じコーディネートの仕事をしながら映画監督を目指していたので自然と映画会社や一連のメディア会社からの仕事が入ったんです。 ——印象に残っている仕事はありますか。
強いて言うなら日本の大人気ドラマ「相棒」の仕事をした時ですね。シーズン11の第1話は香港が舞台だったので仕事をご一緒させてもらいました。息の長い作品のせいかスタッフの皆さんが一丸となっていて素晴らしいチームワークでした。主演の水谷豊さんは分け隔てなく気さくに話しかける方で、言葉の壁がある香港人スタッフにも気軽に話しかけているのが印象的でした。共演されている成宮寛貴さんは過去に香港観光親善大使をされていたこともあってか、香港をよく知っていてロケを楽しまれていましたね。 ——今までを振り返って変化は感じますか。
返還前は英国領ということで注目されていたので日本では味わえないエキゾチックな街として取り上げられていました。返還前に香港に行こうという特集番組や記事なども多かったです。そのころは経費を抑えるということもなく、視点の面白いものや何かをみつけようという制作側の熱い思いがすごかったです。今は取材、ロケ費用をいかに抑えて仕事をするかということに重きを置くことが増えましたね。時代と経済状況によって大きく変っていきました。 ——今後のビジネス展開について教えてください。 メディアコーディネーターは続けていきますが、「食」のコーディネートにも力を入れていきたいと思っています。夏に開催されるフードエキスポではここ数年、埼玉、大阪の企業をお手伝いしていますが、海外では知られていない日本の優れたものはたくさんあります。ただ進出したいけど言語や現地情報不足などで足踏みしている企業もまた多いのが現状です。こうした企業の皆さんの手助けをしながら「繊細で豊かなニッポンの和の味」を広げるためのサポートをしたいと思っています。(この連載は月1回掲載します)
【楢橋里彩】 |
|
|