食品会社からアパレル業界へ
——1983年に香港に初来港。食品会社の駐在社員だったそうですね。
日本から加工食品、生鮮の食品を輸入して当時まだ少なかった現地の日本レストラン、日系のスーパー、日本の食品を扱っている問屋に卸したり、香港近海の魚を日本に輸出する商売をしていました。 ——そのころから和食がはやるだろうと思っていましたか?
生ものはまだ抵抗があった時代なので厳しかったですね。ただ加工食品の試食販売では試食後の購買率が日本以上でした。これを見たときに香港での日本の食品の可能性をすごく感じました。香港の魅力は新規で営業にいっても熱心に話をきいてくれること。飛び込み営業をしても嫌な顔せずに対応してくれる企業は多かったですね。年齢の上下とか企業の大小にかかわらず商談は遠慮なくでき、ビジネスチャンスの多さをすごく感じていました。 ——90年に独立、なぜ食品からアパレル業界に?
流れとタイミングです。85年のプラザ合意によって日本のバブル経済の始まり、それを境に日本の皆さんに余裕が出て海外に投資する人も増えました。当時私はそんな人たちのために週末も休まずアテンドをしていました。このころ交際していた女性が後に妻になる香港人で、日系百貨店のアパレルバイヤーをしていました。彼女を通してアパレル関係に知り合いが増えていき、本業より忙しくなり、流れに任せて独立を決意しました。今思うと妻と知り合って大きく人生が変った気がします。 ——その後にアパレル会社を立ち上げたのですね。
そうです。女性のアンダーウエアを中心とした下着関係です。軌道に乗るまでは本当に大変でした。当時中国の工場で生産していたのは欧米向けばかり。当時日本向けのものは欧米からの発注に比べはるかに少ないにもかかわらずクオリティーにうるさかったのです。デザインや注文が細かい、なのに値切る(笑)。だったら日本人向け専門の工場を造るのはどうかと。最初の工場は借金して合弁で潮州に造りました。縫製専門のスタッフなどもすべて人の紹介。手さぐり状態で発進したものだから、失敗は常にありました。 ——たとえばどんな?
出来上がった女性ものショーツを日本に送ったら、すぐに先方から大クレームがきました。聞くとすべて不良品だと。日本の検品は厳しいので商品を手で思い切り引っ張るんです。そうしたらブチブチ糸が切れていって生地が破けてしまったのです。使った針の種類が違っていたのが原因でしたが、当時はそんなことさえ知らずにやっていました。そんな私を優しく丁寧に教えてくださったお客さん、かかわった皆さんには本当に感謝です。 ——中国の工場を経営するのは大変だったのでは。
通訳不要なので興味をもってくれる企業は多かったですね。少しでも多くの企業に知ってもらうため、帰国するたびに図書館に通ってはアパレル専門書に載っている企業に片っぱしから電話営業しました。 ——アパレル業のビジネスが軌道に乗ったところで再び飲食業ですね。
食品会社出身の私としては、どうしても飲食店を出したかったことがありまして。そこで「すし廣」を立ち上げました。当時、日本料理屋といったらすしのカウンター、和食コーナー、鉄板焼きコーナーという総合的な日本食屋でした。すし屋もグラウンドフロアが主だった中、資金がなく賃貸料も安かったオフィスビルの上階に造りました。当時は専門店がなかったのでその後、天ぷら、焼き肉専門店を造れたのもタイミングが良かったです。 ——昨年から香港日本料理協会会長に就任されましたね。 香港日本料理協会は79年に発足した社団法人です。当時は日系レストランは少なかったのですが人材問題や日本から輸入された魚、野菜、果物といったものの農薬問題などいろいろあり、それを解決していこうということで立ち上げた団体です。今、日本の農産物の海外輸出先の1位が香港です。料理だけでなく伝統文化もあわせて啓蒙活動をしていこうと新たに動き出しています。今加盟しているのは30社くらいですが今後もっと大きくしたいですね。(この連載は月1回掲載します)
【楢橋里彩】フリーアナウンサー。NHK宇都宮放送局キャスター・ディレクターを経てフリーに。ラジオDJとして活動後07年に中国に渡りアナウンサーとして大連電視台に勤務。現在はイベントなどのMC、企業トレーナー、執筆活動と幅広く活躍中。 |
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