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石硤尾(Shek Kip Mei)に1954年に完成した公営住宅街がある。当時最初に完成した8棟の1つが美荷楼(Mei Ho House)で、現在、香港特区政府により第2級の歴史的建造物に指定されている。このほど再開発の一環としてユースホステルと博物館に生まれ変わった。泊まったり、博物館を訪れることで、香港の住宅事情の背景を詳しく理解できるだろう。 (取材と文・武田信晃)
1950年代の香港初の公共住宅
香港市民は住宅価格の高騰に頭を悩ますが、公営住宅の供給量は民間住宅の価格に影響を与える。それは、今でも人口の4割は公営住宅に住んでいるからだ。公営住宅の歴史を知ることは香港の住宅事情を理解する上である種の助けとなる。
その昔の香港政庁は小さな政府が基本だった。香港はあくまで英国植民地だったので妥当な政策と言えよう。その政庁が公営住宅を建設するきっかけになったのが1953年12月25日午後9時30分、クリスマス当日に石硤尾で発生した大火事だ。ランプが壊れて引火したのだが住宅が密集しており風があったことから、わずか10分間であっという間に広がり、40人余りが死傷、5万8000人が家を失った。
★昔の住宅事情を垣間見る
香港初の公営住宅の家賃は10ドル、水道代が1ドルの計11ドル(ちなみに1950年代のある不動産広告によると大きさは不明だが深水埗で家を買う場合1万〜1万6000ドルだった)。美荷楼は6フロアあり1フロアあたり62戸が基本。1戸あたり120平方フィートで、実際は1フロアあたり310人前後住んでいたようだ。
ユースホステルと博物館に
★住民に課された厳しいルール
家に住む基本的なルールも厳しかった。大きさは幅12×奥行10フィートの計120フィート。基本的に1戸あたり5人が住むと規定された(10歳以下は0.5人とカウント)。例えば、ある家族が9人家族とする。その場合2戸与えられるが、2戸目は4人なので、近くの世帯から1人の受け入れを求められる可能性がある(その場合は就寝時などに1人分を用意する)。このような環境だったため2段ベッドが必須家具で、折りたためるベンチを購入し夏場は家の外側の廊下にベンチを広げてそこで寝たりしていたなど、決して理想的な住宅環境とはいえなかった。
ほかの展示物や資料を見ると、当時は屋上では天台学校(Rooftop School)と呼ばれた学校があり、そこで児童が学習していた。当時住んでいた人のインタビューなどを読むと、違う家族の人を受け入れたりしていたせいか、人と人とのつながりが密接で互助精神が強かったことがわかる。彼らが現在の香港の礎を築いてきたが、現代の人々が無くした何かを持っていることを感じるだろう。
★施設充実のユースホステル
ユースホステルといえば、安く、食事などが自分で作れる代わりに、立地はいまひとつ、施設はそれなりというのがステレオタイプ。ここは間違いなくそのイメージを壊してくれるところだ。
立地で言えばMTR深水埗駅から徒歩10分足らず。道中はIT専門のモールや同地区のにぎやかな繁華街を歩くので感覚的にはもっと短く感じるはずだ。129室ある部屋は、2人用の個室(通常は780ドル、会員で680ドル)から見てみたい(シーズンによって価格は変動する)。写真を見てもわかるようにこぎれいで、大きさは269平方フィートだが見た目以上にゆとりがある空間だ。2段ベッドのドミトリーはユースホステルらしい施設だが、こちらも快適に眠れそうな感じだ。8人用、10人部屋があり通常価格は360ドル、会員は260ドルとリーズナブルだ。
トイレ、シャワールーム、セーフティーボックス、インターネットはないが無料のWi-Fiを完備。洗濯機、冷蔵庫、キッチンなどの基本設備はもちろん、いろいろな人と交流できる部屋、多目的ルーム、荷物用ロッカー、ATMなどがある。また、昔の茶餐庁をイメージしたセルフサービスのカフェが入居しており(一般にも開放している)、パスタ、トースト、ハンバーガーなど軽食が食べられる。価格は高くても60ドル程度。同ホステルには中庭のような空間があり、そこにパラソルつきのテーブルがあるのでカフェで注文した料理でも自分が作った料理でもそこで食べられるようになっている。
お土産店もあり、昔懐かしい駄菓子、香港に関する書籍、お土産の定番であるポストカードなどさまざまなグッズが売られている。
★YHA Mei Ho House Youth Hostel (YHA美荷楼青年旅舎)
★Heritage of Mei Ho House (美荷楼生活館) |
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