新たな民主化運動
香港メディアの香港政治関連の報道では、香港ならではの専門用語や、広東語を使った言い回し、社会現象を反映した流行語など、さまざまなキーワードが登場します。この連載では、毎回一つのキーワードを採り上げ、これを手掛かりに、香港政治の今を読み解きます。
対立・分裂する民主派に失望 第62回「佔領中環」(セントラルを占拠せよ)
セントラルを占拠せよ 今回のキーワードは「佔領中環」です。これは英語でOccupy Central、日本語では「セントラルを占拠せよ」となります。 2011年に米国で発生した「ウォール街を占拠せよ」運動をご記憶の方は多いことでしょう。2008年からのリーマン・ショックは世界同時不況を招き、特に若者の失業問題が深刻化しました。同年9月、ネットで動員された数千人の人々がニューヨークのウォール街付近の公園で長期の座り込みを開始し、金融機関と政府に対して抗議の声をあげたのです。 この運動は世界中に飛び火し、全米各地、欧州の主要都市のほか、日本でも東京などで「オキュパイ」が展開されました。そして香港でも10月から、セントラルの香港上海銀行(HSBC)ビル下の広場で「セントラルを占拠せよ」と称する運動が開始され、「金融覇権」などに抗議する活動家がテントを張って住み込み始めました。運動は途中で内部分裂を起こすなどし、参加者は数人の規模にまで減りましたが、2012年9月11日に警察によって排除されるまで、実に11カ月にわたって継続されました。これは、ニューヨークやロンドンなどよりも長時間続いたことになります。
香港の政治経済の現状を反映 「佔領中環」は欧米の強い影響の下に始められた運動でしたが、この運動の展開は香港の政治・経済の現状のさまざまな側面を反映したものであったと言えます。 まず、貧富格差の拡大など、経済面での問題です。2005年から12年までの曽蔭権(ドナルド・ツァン)行政長官の統治の7年間、香港経済は中港融合を原動力に大いに成長し、返還以来の不況・失業・資産価格の低迷などの問題はおおむね解決されました。リーマン・ショックの影響は受けたものの、中国本土経済の恩恵を受けて回復は早く、欧米のような深刻な長期不況は回避されました。しかし、貧富の格差は拡大しました。曽長官は金融・不動産業が香港経済の支柱であると強く信じ、他の産業の振興には関心が薄く、その統治の下で特に不動産開発業者は「地産覇権」と言われるほどに肥大化しました。一方、インフレ、特に日用品と不動産の価格の上昇や家賃の高騰は庶民を大いに苦しめ、一般市民の生活の質は、好況の下でもむしろ悪化したとも言われます。そのような中で曽長官や許仕仁・元政務長官に汚職疑惑が発覚し、政府と財界の癒着が批判されたのです。不動産開発業者の肥大化は香港の特徴ですが、格差の拡大は世界の「オキュパイ」運動と共通の問題意識でした。 また、運動はさらなる「民主化」の求めを反映していました。ウォール街での運動のスローガンは、「We are 99%」でした。これは人口の1%に過ぎない超富裕層が富を蓄積し、残る99%の圧倒的多数の一般人が取り残されているとの主張であり、超富裕層への非難・格差の告発であると同時に、民主主義の機能不全を訴えるものでもありました。すなわち本来多数決であるはずの民主主義で選ばれた政府が、ごく少数の富裕層の利益ばかりを守っているのはおかしいとの主張です。これに関しては、香港には職能別選挙という、制度上露骨に特権階級を優遇する非民主的システムが存在します。政府と財界の癒着の批判が強まるにつれ、香港の世論には職能別選挙を問題視する声が強まっています。 しかし、オキュパイ運動は、現状に対する強い不満と抗議の意識を持つ一方で、それを打開し、新しいシステムを構築するための代替案を持たないという弱点を抱えていたため、徐々に力を失って行きました。代議制民主主義と資本主義経済はいずれも問題を抱えていますが、その解決方法がみつからないことが、西側先進国に共通する閉塞感を生んでいます。一方の香港はいまだに民主主義を経験していません。中央政府の民主化への態度は保守的で、一方、民主派の側も中央政府の圧倒的な力を前になすすべがなく、北京との向き合い方をめぐって対立・分裂し、有権者を失望させています。「佔領中環」や、昨年の「反国民教育運動」の核心には、政党の存在がありませんでした。かつて市民運動を率いた民主派は、そのような力を失いつつあります。しかし、民意の代表者としてそれに代わる有力な存在はなく、「佔領中環」も明確な成果を生むことができずに終わりました。別の種類の閉塞感が香港を覆っています。
民主化要求の新「佔領中環」 このような民主化運動の行き詰まりを前に、最近新しい「佔領中環」を主張する声が、法学者の戴耀廷・香港大学教授から起こりました。戴教授は、これまでのデモや集会などの民主化運動が、北京の譲歩を引き出すには十分ではなかったとして、一万人を超える規模の者を動員し、中環などの香港の政治・経済の中心地帯で長期にわたり座り込みを行うという、新しい「佔領中環」を提案したのです。このような違法行為に及んでまで民主化を求めるという声が、社民連や人民力量のような急進派ではなく、穏健な学者から上がったことは大きな反響を呼んでいます。民主党・公民党などの民主派の主流はおおむね前向きな反応を示していますが、親政府派は動員能力の高い穏健派による過激行為を非常に嫌っており、法学者が違法な座り込みを提唱することを非難しています。中でも同じく法学者でもある梁美芬・立法会議員は、行動がエスカレートすれば中央政府に解放軍を出動させることになると、強く警告しています。 新しい「佔領中環」は構想段階であり、実施するには多くのハードルがありますが、2017年行政長官普通選挙の構想が間もなく政治の焦点となることが想定される中で、「佔領中環」は間違いなく民主派の選択肢の一つとなっています。最近の中央政府の香港に関する発言は政治の引き締めを連想させるものが多く、民主派と中央政府の双方が強硬化の姿勢を見せ、情勢は緊迫しています。北京と香港にとって不幸な結果を回避するためには、双方に今まで以上に柔軟な発想が必要になると言えそうです。 (このシリーズは月1回掲載します)
筆者・倉田徹 立教大学法学部政治学科准教授(PhD)。東京大学大学院で博士号取得、03年5月〜06年3月に外務省専門調査員として香港勤務。著書『中国返還後の香港「小さな冷戦」と一国二制度の展開』(名古屋大学出版会)が第32回サントリー学芸賞を受賞 |
|
|