香港ポスト ロゴ
  バックナンバー
   
最新号の内容 -20140606 No:1408
バックナンバー

 

 

デビュー30周年を迎えたアイドル
 

プリシラの30周年コンサートのポスター(写真提供・RoadShow Media Ltd.)

 

日本デビューに、ライバルの存在 
 

 6月19日から香港体育館(香港コロシアム)にて「Back to Priscilla 30周年演唱会」なるタイトルのコンサートを開く、陳慧(プリシラ・チャン)。1984年のデビュー以来、芸歴30年を迎えた彼女こそ、「80年代を代表する、永遠のアイドル」と言ってもいいだろう。 
 

 同じくアイドルとしてデビューする林憶蓮(サンディー・ラム)と同級生だった彼女は83年、18歳のときに出場したコンテストを機に、レコード会社にスカウトされた。デビューから1年後の85年には、日本デビューしていたため、歌番組などに出演した彼女の愛くるしい笑顔を覚えている人もいるかもしれない。自身の『逝去的諾言』を日本語カバーした『千年恋人』など、明らかに「第二のアグネス・チャン」を意識した売り出し方だったが、当時の日本はアイドル全盛期。松田聖子と中森明菜を筆頭に、有象無象のアイドルがひしめくなか、彼女が入り込むチャンスはなく、早々と日本での活動から撤退してしまった…。 
 

 とはいえ、香港にも彼女のライバルといえる存在がいた。同性からの絶大な支持を受ける、82年デビューの梅艶芳(アニタ・ムイ)である。中流家庭出身で明るい清純派路線のプリシラに対し、低所得家庭の出身でどこか陰があるアニタ。また、プリシラは高音、アニタは低音が特徴のため、まさに先の松田聖子VS中森明菜のような対立構造が連日マスコミをにぎわせていた。しかも、89年にはプリシラが『千千関歌』として、アニタが『夕陽之歌』として近藤真彦の『夕焼けの歌』をカバーしたのである(蛇足だが、この曲のリリース前にアニタと近藤は交際していた)。
 

 

突然の引退・留学、そして完全復帰
 

 『映画 超時空要塞マクロス』の主題歌『愛・おぼえていますか』のカバー『真情流露』を歌ったかと思えば、『風の谷のナウシカ』の広東語版で主人公の吹き替えを務めるなど、元祖オタクのアイドル的存在でもあったプリシラ。だが、荻野目洋子の『ダンシング・ヒーロー』をカバーした『跳舞街』を機に、ダンスを取り入れた「元気な女子路線」へのイメチェンを図ることに成功。続いて、同じく荻野目の『六本木純情派』のカバー『貪貪貪』もヒットさせるなど、新たなプリシラ・チャン像を作り上げていった。とはいえ、アイドルとしての活動に限界を感じたのか、90年米国の大学への留学を理由に引退を発表。トップアイドルの突然の決断に、多くのファンとマスコミは騒然となった。
 

 しかし、CD売り上げが好調の音楽業界はダマっていなかった。レコード会社は彼女を留学先であるニューヨーク州のシラキューズ大学まで追いかけ、ニューアルバム『帰来吧』をレコーディングしてしまうのである。このアルバムは原由子の『花咲く旅路』のカバー『飄雪』や、平浩二が歌った72年のヒット曲『バスストップ』のカバー『紅茶館』など、我々日本人から見ると「なぜ?」と思える楽曲が並んでいるが、プリシラの歌唱力をうまく引き出したアルバムに仕上がっているのである。 
 

 94年には大学で心理学学士号を取得し、翌95年に帰国。その後、待望の復帰を果たし、2000年代に入ると、中国本土での活動も精力的に行っていた。03年には長年のライバルであったアニタ・ムイを子宮頸癌で失い、音楽プロデューサーらとのうわさもありながら現在も未婚であり、今回のコンサート後には49歳を迎える彼女。そんな女の人生までも垣間見ることができるコンサート当日は、カラオケで根強い人気を誇る名曲の数々を披露。彼女に胸ときめき、あこがれたアラフォー世代たちの合唱大会になること間違いない。
 

 

 

筆者:くれい響(くれい・ひびき)
映画評論家/ライター。1971年、東京生まれのジャッキー・チェン世代。幼少時代から映画館に通い、大学時代にクイズ番組「カルトQ」(B級映画の回) で優勝。卒業後はテレビバラエティー番組を制作し、映画雑誌『映画秘宝』の編集部員となる。フリーランスとして活動する現在は、各雑誌や劇場パンフレット などに、映画評やインタビューを寄稿。香港映画好きが高じ、現在も暇さえあれば香港に飛び、取材や情報収集の日々。1年間の来港回数は平均6回ほど。