由来はさまざま
新年度を控え、この春から香港に引っ越してきたという人も多いだろう。香港の街を歩くと、歴史にかかわる地名が多く残っていることに気づかされる。歴史的な背景を知っていれば、散策もさらに面白いものになるはずだ。今回はその中から興味深い地名の由来を紹介する。 (構成・編集部/一部写真・香港政府観光局/参考・『香港大辞典』『香港地名散策』『香港街道命名考源』『九龍街道命名考源』『香港東区街道故事』『簡明香港史』ほか)
芳香が香る輸入港
「香港」という地名の由来について最も有力な説とされているのは、「その昔、香料の原料となる香木の輸入港だった」というもの。明代に中国で使用されていた香木の大半が南方産だったといわれ、香港産の香木は「莞香」という名で知られていた。これは明代半ばまで香港一帯が「東莞県」に所属していたことに由来する。この「莞香を積み出す港」から「香港」という地名になったといわれている。 このほか「清代末期、英国軍がアバディーン(香港仔)に上陸し、『この島は何という名前か?』と尋ねたところ、案内役の水上生活者が港の名前を聞かれたと思い、『香港(ホンコン)』と答えたことから島全体を『ホンコン』と呼ぶようになった」ともいわれる。このようにアバディーンの水上生活者たちが香港の名付け親だったとの説もある。
■ソールスベリーロード 政治家の名前を読み違い
時計台やザ・ペニンシュラなど、チムサーチョイ(尖沙咀)のシンボルが集まるソールスベリーロード(梳士巴利道)。フェリーピアから東北に走るこの道は、19世紀末から20世紀初頭に活躍した英国の著名な政治家であるソールスベリー公爵にちなんで名付けられた。英文のつづりは「Salisbury」なのだが、実際には読むときに「i」を発音しない。ところが、それを知らない中国人の役人が「ソレイシバレイ」と読んでしまい、中国語の音訳で「梳利士巴利」の字を当ててしまったという。 以降、100年近くそのまま使われ続けたが、チムサーチョイ・イースト(尖沙咀東部)の埋め立て工事に伴ってこの道を延長する際、「利」の字を外して、本来の発音に近い「梳士巴利」に訂正したといわれている。
■エレクトリックロード 発電所があった場所
天后から北角(ノースポイント)にかけて延びているエレクトリックロード(電気道)の名は、20世紀初頭から1970年代まで、現在の城市花園(シティーガーデン)の付近に大規模な火力発電所があったことにちなむ。 一方、湾仔の山手には「エレクトリックストリート(電気街)」があるが、ここは北角の発電所ができる前から香港で初めて建てられた小さな発電所があったことに由来する。
■レドナクセラテラス スペルミスが発端? 観光名所にもなっているミッドレベルのヒルサイドエスカレーター。その近くのレドナクセラテラス(列拿士土地台)は、本来アレキサンダーテラスという名前だったが、中国人の役人が「Alexander」のスペルを右から読んで「Rednaxela」と勘違いしたことから、そのままこの中国語名が付いてしまった。公示後は直すに直せなかったという。
■ハリウッドロード 故郷を懐かしむ名前
英国人の役人が故郷を懐かしんで付けた地名もたくさんある。そのひとつ、数多くのアンティーク店が立ち並び「骨とう品街」として知られる香港島のハリウッドロード(荷李活道)。文武廟があることでも有名だ。 この道が開発中だったころに視察に訪れていたデービス第2代総督(任期1844〜1848年)が、道の付近に生えていたヒイラギ(英語でholly)に似た植物を見て、英国の故郷、南グロースターシャイアー地方にあるヒイラギの名園「ハリウッドタワー」を思い出して命名した(実際はアジアのヒイラギと英国のセイヨウヒイラギは別種)。 米国の映画の都、ハリウッドと関係があると思われがちだが、ハリウッドに映画スタジオが造られる40年以上前、すでにこの道にはこの名が付いていたのである。
■コーズウェイベイ 銅鑼のように丸い入り江
今では香港一のショッピングエリアともいえるコーズウェイベイ(銅鑼湾)も、英国人が香港にやって来た当時は現在のビクトリア公園がある辺りは海だった。ちょうどトラムが通るコーズウェイロード(高士威道)辺りには、中国人が作った石の堤防があり、住民を守っていた。銅鑼湾という中国語名は楽器の銅鑼のように丸い入り江だったことにちなんで付けられたという。英語名のコーズウェイベイはその地形に由来し、英語で「土手道」を意味する「コーズウェイ」から来ている。
■広東道 中国本土の地名から 九龍サイドの道路名には北京、上海、南京など中国本土の地名にちなんだものが多く見られる。これは1909年に、個別に開発が進んだ九龍の地名を当時の香港政庁が整理したためで、香港と貿易取引などで縁がある各都市の名前を付けたのだそうだ。 チムサーチョイから北に延びる広東道(カントンロード)は以前は「マクダネルロード」と呼ばれていた。マクダネル第6代総督(任期1866〜1872年)が海賊が横行していた海域の警備を強化するために、水上警察本部を広東道に隣接する丘の上に設けたことがその理由。しかし、1909年の地名整理によって「マクダネル」の名は当時できたばかりの現在のマクダネルロード(ミッドレベル)に移された。 その水上警察の跡地を開発して建てられたのが、ホテルやレストラン、ブティックが入居する「1881ヘリテージ」だ。
■大嶼山(ランタオ島) 製塩所があった島
香港最大の島である「大嶼山(ランタオ島)」。この地名が中国の地誌に現れるのは宋代。当時は「大奚山」の文字を当てていた。「奚」とは中国の古語で奴隷のこと。つまり「奴隷が住む大きな島」という意味。地誌では同島で官営による大規模な製塩が行われ、製塩所で働く先住民がたびたび反乱を起こしたと伝えている。ちなみに、英語名の「ランタオ島」は16世紀、住民が同島の岩だらけの地勢を意味した広東語の「爛頭」を、ポルトガル人が島名と誤解したのが始まりといわれている。
■ウォータールーロード 「オヤジを殴る」笑い話 旺角の「ウォータールーロード(窩打老道)」は、英国とプロシアの連合軍が1815年、ナポレオンを破った「ワーテルローの戦い」にちなんで命名された。ウォータールーは「Waterloo」の英語読み。「ワーテルローの戦い」は中国語で通常「滑鉄盧戦役」という文字を当てるが、このときは中国人の翻訳者がワーテルローの名前を知らず、Waterlooに中国語の音訳で「窩打老」という字を当てた。これが正式に制定されてしまったという。 また、標準中国語で発音すると「窩打老道」となるが、発音がクリアでないと「我打老豆」(私はオヤジを殴る)に聞こえてしまい、笑い話になるそうだ。
■大埔
大歩(大股)で歩く峠
新界東部に位置する大埔は古来、「大歩」と呼ばれた。南に大帽山、北には八仙嶺があり、草木が生い茂るこの辺りには猛獣が住むといわれたため、道行く人は皆、大股で走り抜けたからだという。 また、吐露ハーバー(通称、大埔海)は、清の時代まで中国語で「媚珠池(美しい真珠の池)」という地名で呼ばれていた。これは真珠を愛した後漢時代の王が大埔付近で真珠が採れるのを知ると、配下の武将に命令し採取したという逸話に由来する。
数千人の作業員を大埔周辺で集め、作業員の足に石の重りを付けて海に沈め、数分後に引き上げるというかなり乱暴なものだったともいわれる。現在では真珠採りは行われていないが、時折天然の真珠が発見されることがあるそうだ。 ■レパルスベイなど
英国の名誉をたたえ
香港は英国植民地だった歴史的背景から、軍事行動や英国軍人、官僚、軍艦名などの名誉をたたえて付けられた道も多い。 上環にある「ポゼッションストリート(水坑口街)」は、アヘン戦争のときに英国軍が上陸した地点。「占領街」の意味を持つ名前が付けられた。 香港島南部の「スタンレー」は、英国国防相兼初代の植民地大臣だったスタンレー卿にちなんで付けられた。またスタンレーの中国語名である「赤柱(チェッチュー)」の名の由来には、以下の3つの説がある。①海賊の巣窟=「賊巣(チャーッチャウ)」の発音に由来する②昔、巨大な木綿の木があり、真っ赤な花を咲かせて「赤い木の柱」のように見えたから③赤土がむき出しになった半島の山肌に朝日が照りつけ「赤い大きな柱」のように見えたから——。 美しいビーチが広がり、映画『慕情』の舞台としても知られる香港のリゾート地「レパルスベイ(浅水湾)」は、英国海軍の主力艦「レパルス」の名前から付けられた。 香港屈指のリゾートであるレパルスベイ
漢民族による開拓から英国統治へ 香港の地名の起源は「先住民族」の時代にさかのぼる。ここでいう「先住民族」とは、秦(前221〜前206年)・漢(前206〜220年)の時代に漢民族が南下する以前に住んでいた「百越」と呼ばれるベトナム系、マレー系ともみられる民族のことを指す。この先住民族の暮らしをうかがわせる地名が今でも香港各地に残っている。
焼き畑農業を行っていた一部族のことを先住民族の言葉「輋」の漢字を当てて漢民族は「輋人」と呼んでいた。現在でも、西貢の「遮輋」、沙田の「青輋」など「輋」が付く地名が多く残っている。いずれも海から少し上った斜面にあり、焼き畑農業を営む先住民族が住んでいた場所とみられる。
鳥獣を崇拝する風習がある一部族を、漢民族は「洞」または「峒」と呼んでいた。香港各地の海岸の岩壁に残っている抽象模様を刻んだ「石刻」は、彼らの崇拝の対象だったという説もある。ランタオ島の榴花峒、新界の南山洞など、「峒」 や「洞」の字が付いた地名が山あいに多く残っている。これはかつて沿岸部に住んでいた「洞」の部族が漢民族に追われて山中に移り住んだ名残——という説もある。
華南地域に侵入した秦は「南海」「桂林」「象」の三郡を置き、50万人の軍人や囚人、役人、商人を派遣して開墾や通商に当たらせた。香港は南海郡管轄の「番禺県」に所属していた。 漢民族の入植が本格的に始まったのは宋代(960~1279年)以降、特にモンゴル民族によって元(1280~年)が建てられる前後に急速に増加した。以来、先住民族と漢民族の混血によって華南中国人が形成されたといわれている。 漢民族が名付けた地名には当時の開拓の苦難をしのばせるように、自然の地形や植生にちなんだ「針山」(針状の山)や「松嶺」(松が生えた峰)などがある。やがて産業が振興するにつれて、産物や産業施設を意味する「魷魚湾(イカの湾)」(将軍澳)や「茘枝里(ライチの道)」(錦綉花園)などの地名が生まれた。 後にアヘン戦争(1840〜1842年)により、英国の植民地となった香港には、続々と英国風の地名が付けられた。 香港の地名は現在でも英語と中国語が併記されている。英国統治時代は地名の翻訳は植民地政府の大切な仕事の一つだったという。だが、中英翻訳はなかなか大変で、前述のようにスペルミスや双方の誤解から生まれた奇妙な地名もあった。
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